3代目大名小僧の冒険 シーズン1

3代目大名小僧の冒険3代目大名小僧の冒険

3代目大名小僧の冒険

3代目大名小僧の冒険

路地裏の街、大名。ここで僕は不思議な運命に翻弄される。キテレツ作家が放つ第1弾!

路地裏は異界につながっているという。
でも、その入り口がどこにあるのかは分からない。
いや、正確に言うと、分かる誰かにしか分からない。
そして、分かる誰かになれるかどうかは、誰にも分からない。

episode- 1 時は来たりて

大名地区は、路地裏の街だ。江戸時代の初め、黒田長政が造った城下町で、主に武士が暮らしていた。同じ福岡市にある商人の街・博多は、それ以前に豊臣秀吉による太閤町割りで形作られた歴史があり、成り立ちが異なる。

それに、戦時中も空襲を免れたため、入り組んだ細い道や古い民家が所々に残っていて、路地裏の風情を醸し出している。九州最大の繁華街・天神に隣接していて家賃が割安だったことから、1980年代に若い店主たちが古民家を改造した個性あふれるショップを次々に開店。いつしか「若者の街」と呼ばれるようになった。最近は外国人観光客も増えて、週末は車が動けないほどの賑わいをみせている。

僕はここで生まれ、育った。大名の住人としては、祖父から数えて3代目だ。大学時代は東京で過ごし、地元にUターン就職。それからは転勤続きで腰を落ち着けることはなかったけれど、しばらくぶりに戻ってきた。これから僕の身に起きる不思議な出来事は、歴史深いこの街の記憶と深く関係している。

若い店主たちが進出した後、90年頃にはバブルで地上げが横行した。それで、今では新しいビルが林立しているが、僕が子どもの頃はただの古い住宅街だった。「紺屋町」筋にある商店街のほかには目立った店もなく、路上でキャッチボールすることもできた。紺屋町商店街も、今では若者向けのショップが多いが、昔は八百屋や米屋、魚屋などが並び、店主と買い物する主婦の会話が飛び交っていたものだ。
「きょうはなんにするとね」
「よか魚ある?」
「そうやね~。大きかアラカブの入っとうけん、煮つけにどうね」
「味噌汁もうまかもんね。なら、アラカブばやりぃ。ちょっと負けときいよ」
といった具合に。

それは夏の終わりだった。外回りの仕事に一区切りがついたので、喫茶店を探そうと国体道路と呼ばれる大通り沿いをぶらぶら歩いた。
カフェが数軒並んでいるが、昔ながらの喫茶店はなかなか見当たらない。そんなとき、ふと涼しい風を感じた。「黒猫屋珈琲店」と書いてある。店内の冷気が漏れているのか。それにしては出て行く客を見かけなかったが…。
ともかく味のある店構えに惹かれ、扉を開けた。

間口は狭いが、店内は奥へと長く、思ったよりも広い。カウンターと2人掛けの席が3つ、それと入り口に4人掛け、突き当りにも席があるようだ。濃い木目のフローリングに白い壁、整然としていて空気も澄んでいる。デフォルメされた小さな猫の置物たちが、さり気なく飾られていて、硬質な空間に心地良い揺らぎを演出している。

「お店はいつからですか」
「3年半になります」
「いいお店ですね」
「ありがとうございます」

カウンターに座り、口数の少ないマスターとぎこちない会話を交わし、メニューからアイスコーヒーを注文した。
マスターの背後にある飾り棚に目をやると、和装の猫が2匹いた。お雛様などによくある木目込み人形のようだ。端正な顔立ちで、2匹とも耳をピンと立て、背筋を伸ばしてこちらをうかがっている。

もちろん、うかがっているように見えるだけだ。

と、右側の猫の瞳がすーっと大きくなった。光の加減に違いない。水晶玉でも入っているのだろう。よくできた仕掛けだ。面白い人形ですね、とマスターに声を掛けようと思ったその時、左側の猫の鼻がピクンと動いた。今にも口を開けて欠伸でもしそうだ。

じぃーっと見つめていると、頭の中に声が聞こえてきた。

「忘れてるんだから、いいじゃないか」
「でもさ、ここに来たってことは、そういう時が来たってことだろ」

意味が分からない。後ろを振り返ってみたが、客は他にいない。それに、最初は音声が聞こえると思ったけれど、そうではなくて、文字が頭の中に浮かぶ感じなのだ。

そう考えていると、また文字が浮かんできた。
「1匹とか言うな。俺たちにはちゃんと名前があるんだぞ」
やっぱり。あいつらは僕の考えていることが分かるらしい。
「あいつらって言うな」「名前があるって言っただろ」
はいはい。何ていう名前なんだ。
「何だ、その聞き方は」「人に名前を尋ねるのに失礼だろ」
いや、人じゃないし。それに、猫に名前を尋ねるのなんて初めてだし。
「ま、それもそうだな」「ちょっとムカつくけど」

お名前を教えてください、お猫さま方。
「こいつ、やっぱりムカつく」「そんな風だからダメなんだよ」
ダメって何が? 僕のことを知っているんだろうか。
「知ってるさ。お前のことは何でも」「ダメダメな人間ってことも」

猫にダメ人間呼ばわりされるのは腹が立つが、どうして彼らが僕のことを知っているのかは気になる。それに、この感覚、過去に味わったことがあるような…。ともかく彼らの名前を聞いてみよう。

「そうそう、それでいいんだ」「やっと少し素直になったな」
じゃあ、お名前を教えてください。
「タローだよ」「俺はジロー」

もったいぶった割には単純な(思わず噴き出しそうになったが、ぐっとこらえて)。いやいや、伝統的なお名前ですね。右がタローさん、左がジローさん。兄弟なんですか。
「兄弟? 俺たちにそんな概念はない」「2人で1人、1人で2人だ」

ん~。よく分からないが、あなた方は僕に何か用があるんですか。
「だから、時が来たって言っただろ」「そう、時が来たんだ」


episode- 2 初恋と剣豪と

気がつくと、僕は紺屋町商店街にいた。ランドセルを背負っている。
ちょうどタマゴ屋の前だ。
「まー坊、学校終わったとね」
声を掛けてきたのは、タマゴ屋のおばちゃんだ。

おかしい。もうずいぶん前、バブルの頃にタマゴ屋は地上げされてなくなった。それに、ランドセルということは小学生ってことだ。過去に戻ったのか?

今だとしたら、北海道の食品が売り物の居酒屋や、なんとかワンダーランドっていう雑貨屋が並んでいるはずだ。
しかし、タマゴ屋は確かに目の前にある。周辺はどうだろう。もう一度、見渡してみると、タマゴ屋があった頃、両隣に軒を連ねていた果物屋と薬局があった。それは数十年前の記憶の通りだった。

タマゴ屋は文字通り、卵を売る店だ。今では考えられないけれど、卵を1個ずつ売っていた。そこには不思議な装置があり、僕は学校帰りによく立ち寄って触らせてもらっていた。

五百円玉ほどの穴が開いた箱の上に卵を1個ずつ乗せ、検品する。箱の中には電球が入っていて、その光が卵を照らす。その様子で新鮮な卵かどうかが分かる、とおばちゃんは話していた。
後で知ったことだが、卵は産み落とされてしばらくすると、中に気泡が出てきて気室になる。光を当て、気室の大きさを見ることで、新鮮なものかどうかを判断するのだそうだ。

当時の僕にはそんな理屈は分からなかったが、白い殻の中身が透けて見えるのが面白かった。生命の神秘を感じていたのかもしれない。
ぼーっとしていると、隣の店から声がした。
「まー坊、暑かろ。ソフト食べていかんね」

はまちのばぁばぁだった。「浜地」という果物屋の女主人で、近所に住む僕らは「ばぁばぁ」と呼んでいた。果物屋なのに、当時としては最新式のソフトクリーム製造機を導入して販売していた。
もっとも、自分が気に入った子どもにしか勧めないので、商売としてはうまくいかなかったようで、いつの間にか機械はなくなっていた。

ばぁばぁに手招きされてソフトクリームを頬張っていると、また、あのタローとジローの声が文字になって頭の中に浮かんできた。
「そんなところで油を売る暇はない」「出会うべき人物がいるんだよ」
出会うべき? 出会わなくてはならない、という意味なのだろうか。
いったい誰と…。

「出会うべき人物」と言われても、心当たりはなかった。
まあ、いいや。せっかく小学生に戻ったんだから、それらしく楽しもう、と目の前の文房具屋に入った。週刊誌や絵本なども売っていて、学校帰りにはよく立ち読みさせてもらっていた。今はカフェになっているが、建物は昔のままだ。

週刊少年マガジン、ジャンプ、チャンピオン、サンデー。漫画週刊誌の全盛期で、読む物はたくさんあった。全部立ち読みするのは悪いので、いつも1冊買って、残りを立ち読みしていた。それが店のおばさんとの暗黙の取り決めのようになっていた。

とくにのめり込んでいたのは、マガジンで連載中だった「あしたのジョー」。ジョーの宿命のライバル力石徹が死んだときは、東京では実際に葬式まであった。今のように漫画が文化と認められていない時代に、登場人物の葬儀が行われたということで、テレビでもニュースとして大きく報道されていた。

僕は、その頃の少年たちが皆そうだったように、打たれても打たれても、ボロボロになりながら立ち上がるジョーに憧れていた。不屈の精神で敵と戦うところは、ドラゴンボールやワンピースにも引き継がれている王道だけれど、ジョーには哀愁があった。

この頃はジョーが力石の死を乗り越え、次のライバル、カーロス・リベラとの決戦に臨もうとしていた時期だ。
「おばさん、マガジンください」
「まー坊、ほんとに漫画が好きやね」
「へへへ」
「でも、立ち読みのことはないしょにしとってね。まー坊に漫画ば読ませようことが分かったら、おばさん、お母さんに怒られるけんね」
「分かっとうけん」

おばさんの声を背に店を出て、家がある東小姓町へ向かった。大名は黒田長政が福岡城を築城したときに造った城下町で、筋ごとに名前があった。
僕の家の辺りは、東小姓町。小姓は主君の側に仕えて雑務をこなした武家の少年たちのことで、そうした若者たちが住んでいたらしい。ちなみに紺屋町は染め物屋が集まっていた区画だと考えられている。


東小姓町の筋を歩いていると、呼び止める声がした。
「おい、小僧」
こぞう? 生まれてこの方、小僧と呼ばれたことはない。それに、太く低く響き渡るような声には威圧感がある。関わりたくない感じだ。
黙っていると、声の主はさらに言った。
「おい、その背中のものは、やほろではないか。戦が始まるのか」

きょとんとしていると「その年で戦支度とはあっぱれじゃ」と言う。なにか誤解しているようだ。面倒に巻き込まれたくないし、仕方なく答えることにした。

「おじさん、これはランドセルやけん。いくさって何のこと?」
「なに? 乱土か。それはうまい名をつけたな。年端のゆかぬ小僧が出陣せねばならぬのも、乱世の習いよのう」
なんだかよく分からないが、言葉遣いが相当古めかしい。うちのばあちゃんがよく見ている時代劇に出てくる言葉だ。そう考えると気になってきたので、振り向いて男を見てみることにした。

かなりの長身。子どもの僕にとっては、見上げていると首が痛くなるほどだ。180cmはあるだろうか。羽織袴姿で、しかも、かなり汚れている。髪の毛は伸び放題、といっても頭の真ん中には剃った跡があって、やっぱり武士っぽい。腰には刀を2本差している。武芸者なんだろうか。
「おじさん、どこから来たと?」
「む。わしは新免武蔵と申す。黒田のご家中に兵法を教授しておる」

訳が分からなくなってきた。新免武蔵って、ひょっとして、あの宮本武蔵のことじゃないか。なぜ武蔵がここに?
考えていると、めまいが襲ってきた。


次の瞬間、気づくと僕は「黒猫屋珈琲店」にいた。タロージローがこちらの様子をうかがっている。夢…だったのか。

僕はそそくさと店を出て、家路を急いだ。確かめたいことがあったからだ。以前、大名付近の歴史をまとめた本を読んだことがあり、その中に武蔵の話が書かれていた気がする。
帰宅して倉庫を探すと、あった、あった。「大名界隈誌」。1989年に出版された郷土史本だ。
ページをめくる。見つけた。「宮本武蔵も住んだ町」として、東小姓町が紹介されている。武蔵は黒田家に仕官する望みを持って、しばらく滞在していたらしい。添えられた肖像画を見て、息をのんだ。その出で立ち、やや落ちくぼんだ細い目の奥の鋭い眼光は、ついさっき出くわした人物そのものだった。

武蔵といえば巌流島での佐々木小次郎との決闘をはじめ、生涯負けたことのない二刀流の達人だ。戦前に書かれた吉川英治の小説「宮本武蔵」をもとに多くの映像作品で描かれ、近年では井上雄彦の漫画「バガボンド」で人気が再沸騰している。

そんな歴史上の英雄が、なぜ大名に住んでいたのだろう。調べてみると、武蔵は1645年、62歳の時に熊本で亡くなったとされている。その死後80年ほどたって書かれた「武州伝来記」という本によると、55歳ぐらいの時、福岡にやってきたという。

日本各地で武者修行した後、1637年に起きた島原の乱に出陣してけがを負い、その後、黒田藩に仕官しようと思ってやってきたようだ。佐賀県の武雄温泉にある旅館には、湯治に訪れた武蔵が使ったという井戸が残っているので、島原から武雄温泉を経て福岡に来たのではないだろうか。

福岡を目指したのは、もともと父親の新免無二斎が、播磨にいた黒田官兵衛の弟に仕えていたという縁もあったらしい。

それにしても、本物だろうか。
「本物に決まってるだろ」「見たままを信じろよ」
悩んでいると、タロージローの言葉が頭の中に伝わってきた。
「やほろって言ってただろ」「矢保侶だよ」

そういえば、武蔵はランドセルを見てそんなことを言っていた。
「矢保侶は戦国時代の道具なんだよ」「後ろから飛んでくる矢を防ぐために武士が背負った袋なのさ」
たしかにそんな言葉を知っている人間が現代にいるとは思えない。

でも、なぜ「天下無双」といわれた武蔵が、黒田家に召し抱えられなかったのだろう。「武州伝来記」によると、2代藩主忠之が息子光之の師匠にしようとしたが、家老たちが反対したそうだ。その理由は「異相なる者にて若き人の師匠にはなりがたし」とされている。

武芸に生きた武蔵は、風呂に入らず髪も伸ばし放題。若様の指南役にするには、風体がふさわしくなかったということらしい。忠之は「無用に致すべし」と独り言をいって話は立ち消えになった。その後、武蔵は肥後細川藩に仕え、兵法の奥義を説く「五輪書」を著すことになる。

武蔵に出会って数日後、僕はぶらぶらと紺屋町を歩いていた。東小性町の筋を曲がった辺りで、ポケットから家の鍵を取り出そうとして落としてしまった。屈んで鍵を拾い、視線を上げた時、民家の塀に妙なものを見つけた。
黒いシミのようだけれど、刷毛で書いた絵のようでもある。しばらく見ていると、黒猫の模様が浮かんできた。
こんなもの、前は気づかなかったな。と思った瞬間、周囲の空間が歪んできた。

「おい、小僧」
腹の底に響き渡るような声だった。聞き覚えのあるこの声、武蔵に間違いない。
どうやら、また過去に戻ったらしい。

「おいちゃん、僕に何か用があると?」
「用があるのはお前のほうではないのか」
そう言われても心当たりはない。小説の宮本武蔵は読んだけれど、生まれてこの方、武蔵本人に会いたいと思ったことはないし。

「忘れてるな」「うん、完全に忘れてるな」
タロージローの言葉が頭の中に浮かんできた。
「しょうがない。思い出させてやるか」「そうだな。しょうがないな」
何がしょうがないんだ。いったい僕は何を忘れているんだろう。

「決闘だ」「そうだ、決闘だ」
タロージローの言葉がひときわ大きくなった。頭の中にある画面いっぱいに「決闘」の文字が躍っている。

決闘? 僕はどちらかと言えば優等生だったし、そんな勇ましいことをした記憶はなかった。むしろ、ガキ大将からいじめられていた方だった。
それで思い出した。ガキ大将と言えば、シマダくんだ。体格が大きくて、まあ、ドラえもんのジャイアンみたいな感じといえばいいだろうか。

僕は学級委員長で「良い子」ぶっていたので、気に食わなかったのかもしれない。ことあるごとに標的にされていた。とくに、小学校に入ってから始めた剣道で、同じ道場に通っていたのがいけなかった。稽古にかこつけて、いつも痛めつけられていた。

「感傷に浸っている場合じゃない」「そうだ。あと1カ月しかないんだぞ」
また、タロージローだ。だけどそもそも、何で決闘しなくちゃいけないんだ。
ひょっとして相手はシマダくんなのか? 冗談じゃない。あいつはケンカも剣道も学年で一番強いんだぞ。

「そんなこと言ってていいのか」「大切なものがかかってるんだろ」
大切なもの? その頃の僕にとって何が大切だったんだろう。家族、友達…いや、それも大切だけど、少し違う。

考えているうちに、胸の奥がキュンと絞めつけられ、動悸が早まってきた。甘酸っぱい、それでいて哀しいこの気持ち。長い間忘れていた感覚だ。


そうか。初恋だ。初恋の人。クーミンだ。

僕には小学校に入学した時から好きだった娘がいた。ああいうのを、ひと目ぼれというのだろう。目はくりっとして黒目が大きく、長い睫毛が風にそよいでいた。「プラダを着た悪魔」のアン・ハサウェイみたいに。

いつもは物静かだけど、足は速くて、ハードルを跳ばせたらクラスで一番だった。

彼女が蹴り出す右足は、いつもピンとまっすぐ伸びていて、バンビのように美しかった。

小学校の6年間ずっと同じクラスで、僕はクーミン一筋だった。6年生の夏休み、僕は彼女に暑中見舞いを書いた。今考えると気恥ずかしいけど、はがきの下の方に「キミガスキデス」と小さな文字を添えて投函した。

返事が来るとは思っていなかったし、告白しただけで満足していた。

ところが、夏休みが終わる直前、彼女が家にやってきた。家族旅行のお土産だといって、白い小箱を渡し、スキップしながら帰っていった。後ろに腕を組んで、足をピンと伸ばして。

その後姿を見送って、部屋でドキドキしながら小箱を開けると、銀色に輝くハートの半分が入っていた。ペンダントだった。折りたたんだ小さな便箋に「半分は私が持っています」と書いてあった。これって…そういうことだよね!

僕は1人でスキップしてみた。彼女を真似て足をピンと伸ばして。何度も何度も繰り返して、汗だくになってもやめられなかった。木造の古い家が揺れて、母親から「あんた、なんしようとね」と怒られるまで。

新学期になって、学校が終わると、ときどき一緒に帰るようになった。昭和初期からあるという、小学校の赤いレンガ塀の前を歩くと、なんだかちょっと大人になった気分がしたものだ。

それにしても、クーミンと決闘にどんな関係があったんだっけ。
「そろそろ思い出せよ」「勝たないとお前の初恋も終わりだぞ」
タロージロー、そんなに急かさないでくれ。思い出そうとしてるんだから。

とは言ったものの、答えは浮かばない。深い記憶の底に沈ませておかなくてはならない「何か」があったような気がするだけだ。

考えあぐねていると、武蔵はじれた様子でまた同じことを言った。
「おい、小僧。わしに何か用があるのではないか」
黙っていると怒らせてしまいそうで、僕は仕方なく小さな声で答えた。
「決闘…せないかんけん」
「何じゃと。それでは聞こえぬ。男子たるもの堂々と語れ」
「決闘です。けっとう」

思い切って大声を出すと、武蔵は表情ひとつ変えずに言い放った。
「ほお。それは立派じゃ。して相手は」
「同級生のシマダくん、らしいです」
「それはおぬしの仇敵なのか」
「きゅうてき? ってなんのこと」
「かたきじゃ。仇を取るのであろう」

そう言われても、ピンとこない。そもそも、なぜ決闘しなくてはならないかが分からないのだから。ただ、初恋の人クーミンが関係しているような気がするだけだ。それも、おぼろげな記憶しかない。
「しょうがない」「しょうがないな、思い出させてやるか」
ああ、頼むよタロージロー。スッキリさせてくれよ。


気がつくと、僕は独楽(コマ)を回していた。

6年生になって、クラスでは独楽回しが流行っていた。鉄砲町と呼ばれていた通りにあった駐車場で、僕らは放課後に独楽を戦わせていた。仲間内ではそこを「独楽場」と呼んでいた。

僕たちがやっていたのは、いわゆる「けんか独楽」で、回っている相手の独楽に自分の独楽をぶつけて、長く回っていた方が勝ち、という単純な遊びだ。
博多独楽は17世紀から作られ始めたもので、日本で初めて木製の独楽に鉄芯を打ち込んだ由緒正しいものらしい。もちろん、そんなこと当時は知らなかったけれど。

由緒正しい博多独楽を手に順番を待っていると、割り込んでくる奴がいた。
「おれおれ、おれの番たい」
シマダくんだった。手には佐世保独楽を持っている。

佐世保独楽はどんぐり型で大きく、博多独楽に比べると重さは数倍あった。芯も太くて、博多独楽に命中すると一発で割れてしまう。だから、僕らは使用禁止にしようとしていたけれど、シマダくんは有無を言わせなかった。

学級委員長の僕としては、彼を説得すべきなのだろうけど、そんな勇気があるはずもない。言ったとしても「なんか、きさん」(なんだこの野郎、の意味)と凄まれて一巻の終わりだ。そう思って、諦めていた。

そんなこんなで、けんか独楽はシマダくんの圧勝。独楽場には、割られた博多独楽の残骸が散らばっていて、誰かが「あーあ、また宇宙の墓場になった」とため息をついた。その頃、ウルトラセブンだったと思うけれど、ロケットや宇宙船の残骸が漂う「宇宙の墓場」の話があって、僕らは独楽の残骸をそう呼んでいたのだった。

帰ろうとしていた時だった。
独楽場の前をクーミンが通った。いつものようにピンと足を伸ばして歩いている。僕は誰にも気づかれないように視線を送ったつもりだったけれど、そうはいかなかった。
「ヒューヒュー。そーしそーあい」
僕らに気づいた誰かが、囃し立て始めたのだった。

夏休みが終わって以降、僕とクーミンのことはクラスで噂になっていた。僕は誰にも話してはいなかったけれど、そういう噂はなぜか広まるものだ。

悪いことに、国語の授業で「相思相愛」という言葉が出てきたものだから、カップルとおぼしき2人を「そーしそーあい」とおちょくるのが流行り、僕らもその対象だった。

恥ずかしかったけれど、それ以上に「やばい」と思った。
ん? なぜ「やばい」のだろう。そう考えて、僕は思い出した。シマダくんもクーミンのことが好きだったのだ。本人から聞いたわけではないけれど、そういうことは態度で分かるものだ。恋敵なのだから。まあ、武蔵風に言えば「仇敵」ということになる。

やばい予感は的中した。
「あー。そういや、シマダくんもクーミンやろ!」
誰かが素っ頓狂な声を出した。今も昔も、空気を読めない奴は必ずいるもので、僕は声の主がすぐ分かった。
アーシだ。本名はアツシなんだけれど、いつも「あー」と言って話を始めるから「アーシ」と呼ばれていた。
それにしてもアーシ、そりゃないよ。シマダくんの太い眉毛が吊り上って震えているじゃないか。

「なんか、きさん。なんば言いようとか!」
アーシからクーミンへの恋心を揶揄されたシマダくんは、そこらじゅうに響き渡る声で怒鳴った。体の大きなシマダくんは、もう声変わりしていて、近所のおじさんに悪戯を叱られた時のように、僕たちは首をすくめた。

アーシの奴、そっとしけばいいのに。このままじゃすまないぞ、と思いながらも何もできず突っ立っていると、アーシはさらに意外な行動に出た。
「あー、だって、そうやろ。クーミン、そげん言いよったもんね」
いつの間にか、クーミンが独楽場の入り口に立ち、アン・ハサウェイのように大きな黒い瞳でこちらを見つめている。気弱な僕の心を見透かされているようで、逃げ出したくなった。
いつもならシマダくんの威勢に押されてしっぽを巻くはずなのに、きょうのアーシは違っていた。どちらかと言えばこれまで、シマダくんの子分のような役回りだったけれど、2人の間に何かあったのだろうか。

シマダくんは顔を真っ赤にしながらも、一瞬たじろいだ様子で、ぷるぷる震えていた。そこへ、クーミンが割って入った。

「わたし、何も言ってないよ。でも、強い人が好き」


突然の宣言だった。

クーミンは宮崎生まれで、小学校入学と同時に大名へやってきた。

普段はおっとりした感じだけれど、時々、思い切ったことをする。僕にハートの半分のペンダントをくれたのも、想定外の行動だった。でも、この発言はアポロ11号の月面着陸をテレビで見た時以上の衝撃だった。

月面に人として初めて降り立ったアームストロング船長は「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と言った。でも、強い人が好き、というクーミンの言葉は、小心者の僕にとっては「偉大な飛躍」をしても超えられない壁のように思えた。

「強い人」が僕のことを指しているのではないことは明らかだ。目の前で真っ赤になって震えているシマダくんのこととしか思えない。それじゃあ、僕にくれたペンダントはいったい何だったのか。僕の顔からは血の気が失せ、シマダくんとは対照的に真っ青になっていた。

「おいおい、しっかりしろよ」「先が思いやられるぜ」
気を失いそうになっている僕の頭にタロージローが入ってきた。そうは言っても、この状況じゃあ仕方ないだろ。悪の親玉にヒロインが告白したようなものなんだから、僕の出番はないじゃないか。

「だからダメなんだよ」「強い人、って言っただけだろ」
だ、か、ら、強い人はシマダくんじゃないか。
「それはお前が勝手に決めてるだけだろ」「彼女は名指ししてないし」
えー? ま、そういえばそうか。

独楽場にいたみんなは、クーミンの告白に唖然としていたが、シマダくんだけは違っていた。まるで映画の「大魔神」が埴輪に戻るように平静さを取り戻した。大魔神というのは、その頃に流行っていた特撮ものだ。悪人が民衆を虐げると、埴輪の姿をした武神像が怒って大魔神になって懲らしめるという戦国時代の物語だった。

「アーシ、お前、強い人って誰か知っとうや?」
シマダくんは佐世保独楽を両手でもてあそびながら低い声で言った。強さをひけらかすには佐世保独楽が絶好の象徴だったし、そうでなくても、その場にいた誰もが答えを知っていた。

ところが…。
「あー、クーミン、強い人って誰のこと?」
何て奴だ。アーシは、とぼけた調子でクーミンに答えを振ったのだった。

全員がクーミンの口もとに神経を集中させた。彼女の唇が発する言葉に、僕は耐えられるだろうか。もしも僕じゃない男子の名前が出たら、きっとその場に崩れ落ちて、二度と立ち上がれないと思う。

そんな僕の気持ちを少しは察してくれたのだろうか。クーミンは、ちょっと口をすぼめてこう言った。
「そうねぇ、まだ秘密。強い人は強い人よ」

僕の名前もシマダくんの名前も、その他の名前も出なかった。少し悔しい思いもあったけれど、僕はほっとした。そりゃあ、みんなの前で好きな人の名前なんて言えないよね。それに秘密ってことは、僕の可能性もあるってことだ。

「自分勝手な解釈だな」「お前じゃない可能性もあるんだぜ」
タロージロー、ほんとに君たちは意地悪だね。最悪の事態が避けられただけでもいいじゃないか。と考えていると、アーシがまた余計なことを言い出した。

「あー、そんなら剣道で強い人決定戦したらいいっちゃない?」
そういうことだったのか。強い人決定戦=決闘。つまり、クーミンをめぐる恋の鞘当てが決闘のきっかけだったのだ。単なるアーシの思いつきだったんだろうけど。

シマダくんは余裕の表情で「俺はいいけどね。沢村がよけりゃあね」と僕を見た。
沢村というのは僕のこと。近所では「まー坊」と呼ばれていたけれど、沢村正樹というのが僕の正式な名前だ。

僕は正直言って、ビビッていた。だって、決闘なんてしたことないし、負けるに決まっている。体が大きくて声が低くておっさんみたいで、学年で一番剣道が強いシマダくんが相手だ。そういえば思い出した。みんな怖くて面と向かっては言わないけど、陰では「シマダルマ」って呼んでたっけ。ダルマみたいにどっしりしていたからね。

「負ければクーミンを奪われる」「戦わなければ、クーミンに嫌われる」
タロージローの言うとおりだ。悩んでいる場合じゃなかった。クーミンに嫌われたら生きていけない。大げさじゃなくて、そう思っていた。だって、アン・ハサウェイなんだよ。僕にとって彼女は、唯一無二の存在だった。

「分かったよ。するけん。決定戦、するけん」
僕は意外に大きな声で答えていた。とくに最後の「するけん」は、自分で言って驚いたくらいだ。火事場の何とかというやつだろう。誰かに大声で怒鳴ったのは、それが初めてだったかもしれない。

「あー、それじゃあ決定戦が決定。これでいいのだ」
アーシの奴、こんな時に天才バカボンの決めゼリフなんか使いやがって。いいわけないじゃないか。でも、引くに引けない。僕にだって意地はあるのだ。

「そんなら、いつがいいかいな。俺はいつでもいいけどね」
シマダルマの上から目線は癪に障るけど、僕としては少しでも時間を稼ぎたかった。稽古しないと、今の実力では勝負にならない。返答に窮していると、アーシが口を挟んだ。

「あー、道場の剣道大会がいいっちゃない? 1カ月後にあるけん」
また余計なことを。大会ということは2人が対戦しないこともあるじゃないか。
「決定戦やけん、優勝決定戦やろ。それまでに負けた方は負けたい」
いやいや、ちょっと待ってよ、シマダルマは優勝決定戦までいくだろうけど、僕は無理に決まっている。

とは言うものの、代案も浮かばず、ぽかんとしていると、シマダルマがとどめを刺した。
「おおー、それいいね。ワクワクしてきたばい」
「あー、そんなら決まりやね、決まりたい!」
なんてことだ。アーシの宣言に、周りの友達もみんな盛り上がっている。

ふと、クーミンは? と見ると、ニコニコしている。
えーっ、なにその笑顔は。この時、僕は生まれて初めて「女心は分からない」と思った気がする。ま、分かるはずはないんだけどね。

僕の意思とは関係なく、シマダルマとの決闘が決まった。決闘といっても、剣道大会での対戦なのだが、それがまた厄介だった。おそらく決勝まで勝ち進むであろうシマダルマと戦うには、僕もトーナメントを勝ち上がらなくてはならない。

大会への出場者は、いつもだいたい16人ぐらいだ。ということは、3回勝ってやっと決勝戦にたどり着く。シマダルマと戦うまでに3人を倒さなくてはならないことになる。僕にとっては、月面着陸するより難しい話に思えた。

「何言ってんだ。アポロより難しいわけないだろ」「諦めが早すぎるんだよ」
タロージローよ、励ましてくれるのはありがたいけど、世の中にはどうやったって無理なこともあるんだよ。

「だから、そのために出会ったんだろ」「立派な師匠がいるじゃないか」
師匠? そうか。そりゃあそうだけど、何と言っても、あの宮本武蔵だよ。剣豪とうたわれた大人物が小学生に指導してくれるだろうか。僕は半信半疑だったが、それでも、ほかに選択肢がないのは事実だった。

どうすればいいのか。頭を抱えていると、めまいが襲ってきた。どうやら過去での時間が切れたらしい。僕はいつの間にか、現在の紺屋町を歩いていた。


episode- 3 心を真ん中に

小学生の頃はたしかに、友達と一緒に遊んだり、勉強したり、喧嘩したり、「ともに」生きていた実感があった。大人になった今の自分はどうだろうか。一緒に飲み歩く会社の同僚はいるが、友達とは違う気がする。いつから僕は友達をなくしたのだろう。

会社では無責任な上司から無理難題を押し付けられても、何とか身をかわしながらやってきた。それが大人の対応だと思ってきたけれど、そんな理不尽さとはまともに戦うべきなんじゃないか。シマダルマと決闘することになって、ふとそう思った。僕は戦うことも忘れてしまっていたのだ。

取り留めのないことを考えていると、目の前を黒猫が横切った。

大名には飲食店が多いせいか、少しだけどまだ野良猫が暮らしている。イタチだっている。この辺りは戦災に遭わなかったので、古い家が残っていて、縁の下や庭の隅に潜んでいるようなのだ。

黒猫は路肩まで走ると、ピッと立ち止まった。顔だけこちらに向けて様子をうかがっている。ちょうど雲が晴れて光が差し、瞳の虹彩がきゅっと縮んだ。猫は瞳孔が開いていると優しい顔に見えるけれど、瞳が紡錘形になると途端に野性味を帯びる。

おいおい、僕は攻撃しようとしているわけじゃないんだ。そんなに警戒するなよ。猫好きの僕としては、頭を撫ぜてみたいだけなんだけれど、猫は耳をピンと立て、猜疑心を露わにしている。

近づこうとすると、猫は壁の中に消えていった。そこには、あの刷毛で書いたような黒猫の絵があった。僕は分かった。

きっとまた過去へ連れ戻されようとしているのだろう。

 

「小僧、猫に気配を悟られてどうする。それでは話にならんぞ」
腹の底に響き渡るような、あの声だった。武蔵が現れる時間軸は、どうやら猫に関係しているらしい。

「武蔵のおいちゃん、気配って何のこと?」
「それはな、心の持ちようじゃ。兵法の道において心は常に平常でなくてはならん」

「じゃあさ、平常ってどういうこと?」
「心を広く素直にして、緊張しすぎず、緩まず、心を真ん中に置くことじゃ」
「ふ~ん。心を真ん中にね。なんか分かったような分からんような」

「小僧、お前は伊織と変わらぬ年頃じゃ。よくよく考えれば分かるであろう」
伊織といえば、小説や映画では武蔵の幼い弟子として描かれていて、物語のアクセントになっている。

実際は武蔵の養子で、島原の乱で大きな武功を挙げて出世した。20歳過ぎの若さで小倉藩の筆頭家老になり、武蔵をたたえる碑文を北九州市の手向山に建立している。

そんな人物と同等に扱われては困るけれど、僕は「心を真ん中にする」と聞いて興味が湧いた。
「おいちゃん、僕も心を真ん中にしたら勝てるかいな」
「そう簡単なことではないぞ」
「でも、勝たないかんっちゃん」
「勝ちたいのか」
「うん。どうしても勝ちたい」
「兵法者の修行は並大抵ではないぞ」

というわけで、いきなりだけど僕は武蔵の弟子になった。剣道は小学校1年の頃からやっていて、腕前は仲間内でも真ん中ぐらい。俊敏性はあるほうだけど、シマダルマのような大きな相手には最初から圧倒されて、いつも負けていた。

「小僧、わしの目を見ろ」
武蔵は僕の正面に立ってそう言った。僕らは若宮神社の境内を稽古場に選んだ。夏祭りの時は出店で賑わうけれど、普段は人けがない場所だ。

その年の夏祭りには、クーミンと待ち合わせてデートした思い出の場所だ。たまたま出会ったふりをして、金魚釣りなんかしたっけ。まあ、僕らが示し合わせていたことは、ほかの同級生も分かっていたと思うけど。浴衣姿がかわいかったな。

「小僧、何を考えておる。しかとわしの目を見ろ」
僕の心を見透かしたのか、武蔵はいつもよりさらに響き渡る声で言った。武蔵は刀と小太刀を腰に差したままだ。僕も竹刀は持っていない。これが修行になるんだろうか。

「おいちゃん、稽古するっちゃないと? 竹刀がないけんできんよ」
「ないと思うからないのだ。それより、まずわしの目を見ろ」
ないと思うからない? 何だかよく分からないけど、とりあえず目を見ないと始まらないらしい。

で、武蔵の目を見た。じっと見た。じーっと見た。眉間にしわが寄っている。少し目を細めていて、目玉が動かない。瞬きもしていない。こちらを見ているような、見ていないような…。

睨まれている感じではないけれど、だんだん動けなくなってきた。武蔵の体が大きくなっていく。目に吸い込まれそうだ。僕は思わず、後ずさりした。

「動くな、小僧!」
声が浴びせかけられた瞬間、僕は尻餅をついてしまった。これは何だろう。武蔵の体から陽炎のようなものが立ち上っている。目の錯覚かもしれないけれど、僕はその陽炎に跳ね飛ばされたのだと思った。

「これが兵法、二天一流の心を保つ姿勢じゃ。何があろうと、この姿勢をもって平静の心を保たなくてはならぬ」
んー。頭では分からないけれど、体では感じていた。何もしていないのに飛ばされてしまったんだから。

それから3日間、ひたすら武蔵の前に立ち、目を見る訓練が続いた。初めのうちは全身が緊張して立っているのがやっとだったけれど、少しずつ肩の力を抜くことができるようになった。クーミンの浴衣姿も想像しないようになったし。

「おいちゃん、まだ稽古したらいかんと?」
僕は思い切って、武蔵に尋ねてみた。いつまでも睨み合いじゃ、ちっとも剣道が上達しない。時間ばかりが過ぎていく気がしたからだ。

「小僧、そこの狛犬と相対してみよ」
また意外な返事だった。狛犬って、子ども心には何だか気味が悪い。単なる石像だけれど、その存在自体が意味不明なので、怖くてまともに見たことがなかった。

気は進まないが、仕方がない。狛犬の前に立ってみた。すると、どうしたことか、それまで抱いていた恐怖心のようなものが消えていた。目の上のもじゃもじゃした眉毛や、大きく広がった鼻、出っ張った耳などがはっきりと視界に入り、観察することができた。

「よかろう。その姿勢を忘れるな、小僧」
武蔵はそう言ったかと思うと、再び僕を自分の前に立たせた。よし、これでいよいよ稽古してくれるのかな、と考えながら武蔵の目を見た瞬間だった。

「キエーイ」
獣のような奇声が聞こえ、武蔵の右手がすっと動いた。
僕に見えたのはそこまでだった。風が吹いた。シュッと僕の額に吹きかかった。キラッと何かが光った。
これが殺気というものか。目の前、というより眉間に重い質量を感じた。

刃の切っ先があった。生まれて初めて見る真剣だった。
僕は微動だにしなかった。動けなかったのだ。声も出ない。
「どうだ、小僧」
いや、どうだと言われても、頭の中には?マークが並んでいた。

そんな僕の気持ちはお構いなしに、武蔵は刀を納めながら言った。
「死ぬる。今、切られていたら、お前は死んでいた」
そりゃそうだ。死んでいた。そう考えると、体が震えてきた。

死ぬとどうなるんだろう。仏様になって天国に行って、死んだ人たちと一緒に暮らすんだろうか。それとも無になるのだろうか。

どちらにしても、もうクーミンには会えない。いやいや、ダメだ。まだ死ねない。死にたくない。

「死にたいと思う者はおらぬ。じゃが、死を覚悟せねば兵法者にはなれぬ。小僧、お前が敵を仕留めたいのなら、そこから始めなくてはならぬ。よいか」
僕は兵法者になるつもりなんかなかった。でも、シマダルマには勝ちたい。死を覚悟するということの意味はよく分からないけど、やるしかなかった。

「うん。分かったよ、おいちゃん」
「そうか。それから、おいちゃんはやめろ。師匠と呼べ」
「分かりました。師匠」
「では、参るぞ」

言うや否や、武蔵の気合が飛んだ。
「キエーイ」
刃は全く見えない。武蔵の声が境内に木霊するのを聞く暇もなく、切っ先は眉間にあった。と、目の前をハラリ、と何かが落ちた。前髪らしい。髪の毛が1本、死んだ。

気がつくと、僕は黒猫屋珈琲店にいた。大きなショックを受けたせいだろうか、現代に戻ってきたようだ。カウンターの向こうでは、マスターとアルバイトの女の子が心配そうにこちらを見ている。

「大丈夫ですか。しばらく眠られていたようですけど」
アルバイトの彼女はシャルトリューのようなしなやかさで、グラスに水を注いだ。シャルトリューはフランス原産で、シルバーブルーの美しい猫だ。「微笑み猫」とか「フランスの宝」と呼ばれている。

彼女の身のこなしや微笑みは、シャルトリューのイメージにぴったりだった。だから、僕は勝手に彼女を「シャルル」と名付けていた。ひょっとすると彼女は猫の化身なのかもしれないとすら思っていた。

「そんなこと考えてる場合か」「修行はどうするんだよ」
タロージローの言葉が頭の中に入ってきた。そういえば君たち、目の前にいるんだったな。でもね、小学生が真剣を突きつけられたんだよ。気絶して当たり前じゃないか。

「当たり前のことをやっていていいのか」「当たり前じゃ勝てないんだろ」
まあ、そう言われるとそうだけど。じゃあ、武蔵の元に返してくれよ。
「少しはやる気になったみたいだな」「やっとやる気になったのか」
なんだよ、本当にああ言えばこう言うんだな、君たちは。だから、やる気になったんだってば。

一人でぶつぶつ言ってる僕を見て、シャルルは不思議そうな顔で「はい、コーヒーどうぞ」とカップを差し出した。

その香りを胸に吸い込もうとした時、タロージローの目が一瞬細くなるのが分かった。おいおい、まだコーヒー飲んでないんだから、と言うより早く彼らの目がキラッと光った。

僕の顔を誰かがのぞき込んでいる。武蔵だった。若宮神社の境内だ。
「小僧、これしきで気を失ってどうする。続けるぞ」
「はい。お願いします、師匠」
さすがに僕も覚悟を決めた。もう逃げられない。

「キエーイ」
武蔵の刃は何度も何度も僕を襲った。そのたびに僕は尻餅をついたり後ずさりしたりしたけれど、もう失神することはなかった。

そして変化が起きたのは3日目だった。

「キエーイ」
気合とともに、武蔵は左腰から大刀を抜き、切っ先が僕の脳天にめり込む寸前で止めた。目の前にはギラギラと輝く刃が浮かんでいる。

僕は不思議に思った。刀を抜いて眼前に突き付けられるまで、1秒もないはずだけれど、なぜかその動きがゆっくり見えたからだ。それまでは、ただただ恐ろしくて必死に体を硬くして目を閉じていただけだったのに。

「見えたな、小僧」
武蔵にそう言われても、僕はきょとんとしていた。
「剣の軌道が見えたであろう」

たしかに、大刀を抜いて円を描く武蔵の右腕の動きが、僕には見えていた。見えたということは、瞬きもしなかったということだ。
「うん、おいちゃん。いや、師匠。見えたごたあ。見えたっちゃろうと思う」

武蔵はそれからも幾度となく剣を抜き、僕の脳天に振り下ろした。その度に髪の毛が何本か死んだけど、もちろん僕は死ななかった。それどころか、髪の毛が切られる音すら聞こえるような気がしていた。

スポーツ解説で「ゾーンに入る」っていう言い方もあるけれど、そんな感じなのかもしれない。プロテニスの錦織圭の試合で、解説者の松岡修造が「圭は今、ゾーンに入ってます」というように。要は集中力の問題なのだろうけど。

あれほど恐ろしかったのが嘘のように、僕は武蔵の打ち込みを楽しんでいた。
「師匠、もう1本!」
「まだまだ、もう1本!」
調子に乗った僕は、武蔵に何度も何度もリクエストして、その太刀筋を見切ったつもりになっていた。

「師匠、もう大丈夫です。分かりました」
そう言おうとした時だった。
「キエエエーイ」
ひときわ鋭い武蔵の声が響いたかと思うと、僕は地面に突っ伏していた。
「小僧、油断してはならぬ」
僕は武蔵の足払いで飛ばされたのだった。

「それは反則やけん、いかんよ師匠」
「勝負に反則も何もあるまい」
「だって決まっとうもん」

戦場で命を懸けた武蔵の時代とは違い、竹刀や防具を使う剣道で戦うのだということを説明するのに、僕は随分と苦労した。剣道では足払いは反則なのだ。
「それは剣術ではないな。武芸者は命のやり取りをするものだ」
武蔵は不服そうだった。

剣道の竹刀や防具が開発されたのは1700年代の初めで、直心影流の長沼四郎左衛門国郷という人が竹刀で打ち合う形を確立したとされている。武蔵はその前の1645年に没しているので、知らなくて当然なのだけれど。


若宮神社の境内で、武蔵にひと通り説明した頃合いだった。僕の目の前にホームランバーが差し出された。
「お・つ・か・れ・さ・ま」
声を聞いて、僕はうれしさのあまり飛び上がりそうになった。いつの間にやってきたのか、クーミンだった。

ホームランバーは1960年に発売されたスティック式のアイスクリームだ。スティックに当たりくじがついていて、当たるともう1本もらえた。たしか1本10円だったと思う。少ない小遣いで買える僕らの定番アイスだった。

大名の西小姓町には、僕らが「いもや」と呼んでいた駄菓子屋があって、そこでよく買い食いしていた。クーミンもきっと、そこで買ってきたのだろう。
「はい、おじさんにもあげる」
クーミンは武蔵にもホームランバーを差し出した。彼女には武蔵が見えるらしい。

と、次の瞬間、武蔵は「むっ」と気を吐き、ホームランバーは宙を舞っていた。

「師匠、なんしようと!」
僕には武蔵の右手が動くのが見えたが、クーミンは何が起きたか分からず、手先を見て目を丸くしている。持っていたホームランバーは、見事に真っ二つになっていた。

「小太刀ではないのか。なんじゃそれは」
銀紙で包装されたホームランバーを見た武蔵は、小太刀と勘違いしたのだ。少女を相手にしても警戒を解かない兵法者の凄みに、僕はあらためて驚いたけれど、それよりもクーミンが危ない目に遭ったことに怒っていた。

「おいちゃん、いや師匠、危なかろうもん。それはホームランバーやけん」
「すまぬ、すまぬ。その、ほおばるばーとはなんじゃ。食するものか」

そのやり取りを聞いて、ようやく気を取り直したクーミンが言った。
「ふふふ、冷たくて甘い食べ物よ、おじさん。はい、ほおばるばー」
子どもをあやすようなクーミンの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。

クーミンから銀紙の包装をむいてもらった武蔵はバーの匂いを嗅いでいたが、何も感じなかったようで、「むう」と首を傾げながら、舌でぺろりと舐めた。その時の顔は、言葉じゃ言い表せない。

「甘いでしょ。おじさん」
クーミンの言葉に頷いたと思うと、武蔵はがつがつとバーを食べた。口髭は溶けたバニラアイスで真っ白になっている。

「もうひとつ所望できぬか」
よほど気に入ったのか、武蔵はクーミンにおねだりしたが、「今日はもう終わり。また今度ね」と諭されて、がっかりした顔になった。

僕はおかしくて仕方がなかったが、何しろ日本で初めてアイスクリームが製造されたのは明治時代に入ってからのこと。武蔵が感動するのも当たり前だ。ともあれ、この日から「ほおばるばー」は修行の必須アイテムになってしまった。


episode- 4 開眼、二刀流

翌朝、僕は二刀流の竹刀を手に入れるため、電車で武道具店へ向かった。その頃は路面電車がまだ健在で、10駅目の「西新」の近くに店はあった。子どもは30円だから安いものだ。

「あのギナンを知ってるか」「知ってるだろ」
電車に乗ると、タロージローの言葉が浮かんできた。ふと進行方向の右手を見ると、大きなイチョウの木が立っている。福岡方言では「ギンナン」ではなく「ギナン」と言う。てことは、タロージローは地元の猫なんだろうか。

そういえば、小学生の頃はそばにボーリング場があって、よく遊んでいた。といってもボーリングするお金があるわけじゃないので、何となくうろついていただけのような気がする。それ以上のことは記憶が定かじゃない。

「まあいいや」「まだ思い出さなくてもいいさ」
タロージローよ、何を言いたいのかよく分からないけれど、覚えてないものはしょうがないじゃないか。

この辺りは身分の高い黒田武士の屋敷が並んでいた一帯で、イチョウの木があるのは飯田角兵衛の屋敷跡。昔は銀杏屋敷と呼ばれていたという。樹齢300年以上の大木だ。

角兵衛が黒田藩に仕官したのは二代忠之の時代だが、一度は仕官を断念している。忠之は初代長政の忠臣たちと対立し、藩取りつぶしの危機に立たされた。武蔵が黒田家に仕官しようとしたのもその頃だ。
ひょっとすると、武蔵もこのイチョウを見ていたかもしれない。

西新で電車を降りた僕は、武道具店に向かった。西新商店街は近隣から新鮮な魚や野菜を売りに来る行商のおばちゃんたちでにぎわっている。人の間をすり抜けるようにして進むと、商店街を少し外れた一角にその店はあった。

入り口に掲げられた木製の古びた看板には「武仁堂」と書いてある。引き戸を開けて店内に入ると、かすかにすえた汗の臭いがした。棚には剣道や柔道の道着や防具が並んでいて、ふつうの運動用具店とは違う緊張感がある。この何となく背筋が伸びる感じ、僕も嫌いではなかった。

ちょうど正面の机で、店主らしき人物が竹刀を修理している。気難しい顔をしたじいさんだったが、僕は思い切って話を切り出した。

「二刀流の竹刀はありますか」
返事はない。聞こえないのだろうか。耳が遠いのかもしれないと、大きな声でもう一度聞いてみた。
「二刀流の竹刀が欲しいっちゃけど」

すると、じいさんはギロリとこちらに目を向けた。
「聞こえとる。二刀流? なんでそげなもんが欲しいとか」
「試合せないかんけん」
「坊主、小学生やろ。小学生が二刀流やら聞いたことないぞ。やめとけやめとけ」

そりゃそうだろ。僕だって武蔵に会わなかったら二刀流なんて考えもしなかったんだから。それでも、シマダルマに勝つためには絶対に必要なんだ。ここであっさり引き下がるわけにはいかない。

「だけん、試合せないかんっちゃん」と言おうとしたその時、頭の上から竹刀が降ってきた。いや、正確には竹刀が振り下ろされ、僕の目の前で止まった。
「ほほう。坊主、竹刀をよけんかったな。その年にしては珍しい」
じいさんはそう言ってにやりと笑った。でも、武蔵の真剣を受け続けた僕にとってはデジャブのようなもので、簡単だった。

竹刀をよけなかったのを気に入ったのか、じいさんは二刀流の竹刀を売ってくれた。僕はお年玉やら小遣いの残りを集めた全財産を差し出し、大刀と小太刀を受け取った。大刀は普通の竹刀より少し短く、片手で振りやすいように軽くなっていた。

「何があるかしらんが、坊主、二刀流は剣道では邪道やけんな。それを忘れんごとしとけよ」

武仁堂のじいさんは最後にそう言った。でも、邪道って言われても勝たないと意味がない。負けたらすべて終わりなんだから。じいさんにその覚悟を語ってやりたかったが、「彼女のために」という動機が不純な気もして、僕は黙って店を出た。

電車で帰り着くと、小学校の校庭から子どもたちの声が聞こえてきた。電停側にある裏門からのぞくと、アーシたちが三角ベースに興じている。

僕たちが通った大名小学校は1873(明治6)年の開校で、市内で最も古い小学校のひとつだった。卒業生は総理大臣を務めた広田弘毅をはじめ多士済々なのだが、少子化で2014年3月に閉校した。寂しいけど、僕らの頃もすでに1学年に2クラスしかなかったので、仕方のないことだと思う。

校門の外で懐かしい思いにふけっていると、肩を叩かれた。
「あー、お前、なんしようとや」
アーシだった。

「おお、西新のおばちゃん家から帰るとこたい」
「あー、竹刀、買ったとや」
「うん、試合に使うけんね」
「あー、気合入っとうね。2本も買ったと?」
「まあね。あ、早よう帰らないかんけん」

2本の竹刀をひとつの袋に入れてもらったので、小太刀には気づかれなかったと思うけれど…。僕はアーシの視線を背中に感じながら、急ぎ足でその場を去った。

その夜は幼なじみのヨーコちゃんの誕生会だった。ヨーコちゃん一家は、近所で生花店を営んでいて、うちとは家族ぐるみの付き合いだった。僕には弟が、彼女には妹がいて、そろって同い年。従妹同士のような感じで育った。

誕生会の会場は、警固神社の参道にある老舗の中華料理店だった。
「そういえば、まー坊、若宮神社におったよね。なんしよったと?」
隣に座ったヨーコちゃんから尋ねられて、僕はドキッとした。ひそひそ声だったから、彼女は何か秘密の匂いを感じ取っているようだ。

「うん、剣道の練習しよったったい」
「ばってん、1人でずーっと立ったまんまやったよ」
この店の名物料理、ショウケイを口に運びながら、ヨーコちゃんは探りを入れてくる。

ショウケイは、小麦粉を練って薄く延ばして焼いた薄餅で、蒸した鶏肉と白髪ネギ、甘い中華ミソを包んで食べる。めったに食べられないご馳走だったけれど、とても味わう余裕などなかった。

僕が1人で立っていたというのだから、彼女には武蔵が見えないのだろう。だとしたら、確かに奇妙な光景だ。
「精神統一の練習たい。集中せんといかんけんね」
「ふうん。クーミンのため?」
もう少しでショウケイの白髪ネギがのどに詰まるところだった。

ヨーコちゃんも同じクラスだから、僕とシマダルマの対決のことは知っているとは思っていたけれど、こんな風に直接的に聞かれると、ドギマギしてしまう。

どうにかしてごまかそうと考えていると、ウエイトレスが麻婆豆腐を運んできた。
「わー、兄ちゃん豆腐」「ほんと、兄ちゃん豆腐やねー」
麻婆とまー坊をかけて、弟とヨーコちゃんの妹がはしゃぎ始めた。おかげで、僕はなんとかその場を乗り切ることができた。

翌日、僕は買ったばかりの竹刀を持って、若宮神社の境内で武蔵を待っていた。初めの頃はいつどこで武蔵に会えるか分からなかったけれど、時を経るにつれて、何となく武蔵の存在が感じられるようになっていた。

というより、そこにいると信じればいる、逆に信じられないと現れないという感じで、要するに自分の心が定まるかどうかにかかっているらしい。

「ふーん、ちょっとは分かってきたようだな」「ちょっとだけどね」
タロージローよ、君たちはいつも偉そうだな。でも、まあいいや。君たちのおかげで武蔵に会えたんだからね。

「小僧、それが竹刀というものか。ふむ。竹を割って合わせてあるな。稽古用としてはまずまずの出来栄えじゃが、これでは殺せぬな」

タロージローの言葉が途切れると、目の前には武蔵がいた。竹刀を品定めして何だかぶつぶつ言っているけれど、僕は早く練習がしたかった。

「師匠、やっと買うてきたっちゃけん、二刀流ば教えてください」
「うむ。それもそうじゃな。では腕を回せ」
「腕を回すって。打ち込みじゃないと?」

剣道といえば、竹刀を振りかぶって相手に掛かっていく打ち込み稽古が基本だ。僕は武蔵の指示がよく分からず、きょとんとしていた。

僕はひたすら腕を回した。左手に小太刀、右手に大刀を持ち、内回し、外回し。また内回し、外回し。武蔵が「よし」と言うまでピュンピュン回した。

そういえば「ピュンピュン丸」という忍者もののアニメがあった。少し前、DVDが販売されているのを見かけて懐かしかった。その記憶がシンクロしたのかもしれない。
「ありゃりゃんこりゃりゃん、おつむのネジが、こりゃまたばっちりゆるんでる」
テーマソングを歌う財津一郎が「キビシー」とか「サビシー」とか、その頃流行ったギャグを合いの手に入れていて、何度聴いても笑えた。

一度頭に浮かぶと、リピートスイッチが入ってしまう。僕はいつの間にかピュンピュン丸の歌を口ずさみながら腕を回していた。
「なんじゃ小僧、その歌は」

あ、怒られる。そう思って僕は口を閉じた。すると…。
「愉快な歌じゃのう。良い調子じゃ。剣には調子が大事なんじゃ」
調子? リズムということだろうか。なにはともあれ、武蔵はすっかりピュンピュン丸の歌が気に入ったらしい。

それからは「ありゃりゃん」で内回し、「こりゃりゃん」で外回しをするはめになってしまった。誰かに見られたら、気がおかしくなったと思われるだろうけれど、勝つためには仕方がない。

僕は気合を入れて「ありゃりゃん」「こりゃりゃん」を叫び続けた。

1週間が過ぎた。その間、僕はひたすら腕を回し続けた。武蔵はクーミンが差し入れてくれるホームランバーを食べながら「ほおばるばーは美味いのう」と言うぐらいで、何もアドバイスはしてくれない。

決戦の日までもう2週間しかない。さすがに僕も堪忍袋の緒が切れた。
「師匠、いい加減で技ば教えてください。勝負に間に合わんです」
「ふむ。そうか」

言葉を言い終わらないうちに、武蔵の気合が響いた。
「キエエエイ」

僕はとっさに左手の小太刀で受けようとしたが、遅かった。しまった。脳天に衝撃が走る。ああ、頭蓋骨が打ち割られる。もう終わりだ。頭の中がチカチカキラキラしている。

「小僧、何をぼけーっとしておる。まだ寸止めじゃ」
武蔵は剣を収めるとニカッと笑った。真剣だと思い込んでいたが、武蔵が手にしていたのは僕が練習用に持ってきた古い竹刀だった。

助かった。真剣だったら本当に死んでいた。
「小僧、今の要領で良い。敵の剣を小太刀で受け、大刀で反撃するのじゃ。さ、いくぞ」
再び武蔵の気合が響いた。

「ありゃりゃん」
僕はとっさに叫んだ。すると体が勝手に動く。左手の小太刀が内回しで頭上に跳ね上がり、武蔵の竹刀を受けたのだ。

「こりゃりゃん」
次は右手が動く。中段の構えから外回しで武蔵の面を狙った。さすがに武蔵、間合いを取って軽々とよけられたけれど、僕は十分に手応えを感じていた。

そうか、この流れなんだ。これが二刀流なのか。僕はその日から、この剣法を「ありゃりゃん剣」と呼ぶことにした。ちょっと変だけど、ドラゴンボールのかめはめ波だって変な名前なんだから、いいよね。

目覚めると、朝から雪だった。武蔵に稽古をつけてもらっていたはずが、現代に戻っているようだ。ウルトラマンのカラータイマーではないけれど、一定の時間が過ぎるとタイムスリップする力がなくなるのかもしれない。


この日、福岡の街は大寒波に襲われ、すっかり凍りついていた。大名の街路樹たちも、かき氷を振りかけたように色をなくしている。
僕は会社を出て、国体道路沿いの黒猫屋珈琲店に向かった。後ろで上司が何か叫んでいたけれど、いつもの癇癪だろう。今の僕にとっては、過去に決着をつけることの方が大事だ。この際、無視することにした。

店を訪ねると、アルバイトのシャルルがカウンターの向こうで1人たたずんでいた。マスターは店の奥で食事を作っている。昼過ぎには満員になることもあるのだが、この雪ではさすがに客は少ない。

「寒いですね~。40数年ぶりの寒波らしいですよ」
髪を切ってボーイッシュになったシャルルが柔らかい笑みを向けてくる。
僕はブレンドコーヒーを頼んで「そうだよね。すごいよね」と相槌を打った。

冷え切った体に広がるコーヒーの熱を感じながら、僕はシャルルに「実はその40数年に行って帰ってきたんだよ」と言ってみたかった。信じてくれるだろうか。
そういえば、彼女はジャズバンドでトロンボーンを演奏しているそうだ。その頃の音楽には興味があるに違いない。屁理屈だけれど、僕は自分の身に起きたことを誰かに話して、少しは気を楽にしたかった。

「信じるわけないじゃないか」「変な人だと思われるのがオチさ」
シャルルの背後から、タロージローがこちらを見つめている。なんだよ、誰かに話したらまずいことでもあるのかい。
「まずくはないけどね」「旅が続けられなくなるだけさ」

それはまずいじゃないか。このまま終わったら不完全燃焼もいいところだよ。そもそもクーミンとのことだって、君たちが思い出させたんだろ。
「忘れてるほうが悪い」「忘れさせてやろうか」
分かった分かった。それは困るよ。分かったから武蔵のところに戻してくれよ。

そう願った瞬間、タロージローの瞳がくわっと開いた。
僕は40数年前の若宮神社にいた。境内はしんと静まり返り、降り積もった雪の上で鳩たちが遊んでいる。足跡が何かのデザインのように見えて不思議だ。僕はしゃがんで地面に見とれていた。

しばらくすると、1羽のカラスが目の前に舞い降りてきた。慣れているのか、鳩たちは動じない。しかし、次の瞬間、僕の体は横に飛び跳ねていた。背筋に冷気のようなものを感じたのだ。その動きに驚いたのか、鳩たちも一斉に飛び立った。

「小僧、よく分かったな。それでよい」
武蔵だった。抜き身を手にしている。背後から首筋に切っ先を突き付けていたらしい。殺気を感じるかどうか、僕を試したのだろう。

それからが、武蔵との熾烈な稽古の始まりだった。

竹刀1本を中段に構える武蔵に対して、僕は右手に大刀、左手に小太刀。同じ中段の構えで向き合った。武蔵の竹刀は大砲のように大きい。もちろん、僕の目からそう見えるだけなのだけれど。しかも、微動だにしない。

「打ち込め、小僧」
そう言われても動けない。まるで金縛りにあったように動けないのだ。どこに打ち込んでも返されそうで、隙がない。でも、打ち込まなければやられる。そう思った時、左手の小太刀がピクッと動いてしまった。

「キエエエエイ」
武蔵の気合が飛んだ。僕はとっさに「ありゃりゃん」と叫んでいた。面を打つ武蔵の竹刀に対して、左手の小太刀で防御しようとしたのだ。

しかし、遅かった。武蔵の竹刀は僕の脳天に突き刺さった。と思った。寸止めだから助かったものの、確実に1本を取られて負けているパターンだ。

「どうした小僧、死にたいのか」
そんなわけがない。ただ恐ろしい。武蔵の全身から立ち上る気迫のバリアに触れるのが怖かった。こんなことでは勝てない。僕は絶望的な気分で涙があふれそうになった。

その時、鳥居の陰に人影が見えた。見覚えのあるタータンチェックのスカート。その頃、人気が急上昇していたスコットランドのバンド、ベイ・シティ・ローラーズが流行らせたファッションだった。

クーミンは、大きな瞳でじっと僕を見ていた。
その姿を見た途端、僕の体は熱くなった。すっかり武蔵の気迫にのまれて凍りついていた脳髄が、その熱で溶かされていく。氷のように固まっていた手足にも体温が戻ってきた。

心のエネルギーを充電するひとつの方法は「自分が日頃から望んでいることをかなえること」だと聞いたことがある。僕にとってクーミンは心のエネルギー源なのだ。その姿を見ているだけで毛細血管の隅々まで活力がチャージされ、点灯する。

落ち着きを取り戻した僕は、中段の構えで武蔵と向き合った。武蔵の竹刀はさっきまでのように大きくは見えない。僕はただじっと武蔵の目を見つめていた。教えられたわけではないけれど、その方が相手の動きを察知できるような気がしたからだ。

武蔵の瞳孔が開いた。気のせいかもしれない。でも、ほんの少しだけれど殺気が放たれるのを感じた。
「キエエエエイ」
「ありゃりゃん」
僕はとっさに踏み込み、左手の小太刀で武蔵の竹刀を受けた。

「キエエエエイ」の「キ」と「ありゃりゃん」の「あ」は、ほぼ同時だった。
武蔵の懐に入った僕は、跳び抜きざまに右手の大刀で面を打ち込んだ。
「こりゃりゃん」

手ごたえあり、と思った。
「小僧、枕を押さえたな。今の間合いじゃ。忘れるな」
武蔵は左手で僕の大刀をつかんでいた。さすがに剣豪、やすやすと僕なんかに打ち込まれるわけがない。わざとよけずに竹刀をつかんでみせたのだった。

「師匠、僕、枕やら持っとらんよ」
「なんじゃ、枕を知らんのか。敵が何事かをなす兆候を察知して、そのことをさせないようにすることじゃ」

ふ~ん。分かったような分からないような…。でもまあ、いいか。褒められたんだから。そう思ってほっとしていると、武蔵は言葉を続けた。

「じゃが、敵の動きを待っているだけではだめじゃ。まずは先手を取って技を仕掛けなくてはならん。こちらから仕掛けながら敵の枕を押さえ、思うままにあしらうのが兵法の達者というものじゃ」

ふ~ん。ますます分からない。でも先手を取るということは分かる。とにかく仕掛けてみるしかない。僕は打って打って打ちまくることにした。

「ありゃりゃん」
「こりゃりゃん」
「ありゃ」「こりゃ」
「あ~」「こ~」
「りゃっ」

自分で意識したわけではないけれど、いつの間にか掛け声が短くなったり、語尾だけになったり、いろいろ変化していった。リズム感とでもいうのだろうか。僕はだんだん稽古が楽しくなっていった。

「ほおばるばーですよ」
息が上がってきたころ、クーミンがホームランバーを持ってきた。冬の真っただ中だったけれど、汗をかいてひりついた喉に甘いアイスは気持ちよかった。武蔵は例の調子でむさぼり食べている。

明日から冬休み。決戦は年が明けて1月2日だ。僕はそれまでクーミンが見守っていてくれるものだと思っていた。しかし、彼女の姿を見たのは、この日が最後になった。


episode- 5 渡された手紙

武蔵との立会い稽古を繰り返しているうちに年末になり、大晦日がやってきた。テレビではレコード大賞をやっている。この後、紅白歌合戦を見るのが毎年の過ごし方だった。

普段は、ばあちゃんとチャンネル争い(その頃は録画機能もなかったので、どの番組を見るか熾烈な争奪戦だった)していたが、大晦日だけは意見が一致していたのだ。

その年のレコード大賞は、ちあきなおみの「喝采」。哀しい大人の歌だった。詞の主人公は、突然亡くなった恋人を思いながら舞台に立ち、恋の歌を歌う女性歌手。それが、ちあきなおみ本人と二重写しになる。

聴きながら僕はずっとクーミンのことを考えていた。冬休みになって家まで何度か行ってみたけれど、シーンとしていて誰もいないようだった。家族でどこかに旅行にでも行ったのだろうか。いくら考えても分からなかった。

年が明け、僕は氏神の警固神社に初詣に出掛けた。警固神社はもともと福岡城の本丸が築造される場所にあったものを黒田長政が移し、黒田家代々で守ってきた由緒ある神社だ。言い伝えによると古代、異国を攻める神宮皇后を警固した3人の神様が祭られている。

「禍事(まがごと)」、つまり災いを払う神様なので、決戦を前にした僕にはぴったりの初詣だった。境内は出店で賑わう今と比べれば静かで、地元の人しかいない。お参りをすませ、しばらくクーミンを捜してみたけれど、やはり姿はなかった。

うろうろしていると、後ろから声を掛けられた。
「あー、なんしようとや」
アーシだった。僕の顔をのぞき込むように見ている。

「おー、初詣に決まっとろうもん」
僕は少しドギマギしていた。クーミンを捜していることを知られて冷やかされたくはない。そんな気持ちを悟られないように平然と言ったつもりだ。

「あー、そやね。明けましておめでとう。で、なんしようとや」
「やけん、初詣に来たったい」
「あー、初詣に来てなんしようとやって聞きよったい」
「なんもしよらん。お前、なんしようとや」

この「なんしようとや」(なにしてるの)の連鎖は福岡独特の会話の流れだ。あいさつ代わりのジャブのようなもので、特段の意味はない。だけど、この時のアーシはジャブで牽制してストレートを打ち込んできた。

「クーミン、おらんやろ? 引っ越したらしいばい」
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。パンチは僕のこめかみにクリーンヒットした。まるでホセ・メンドーサのコークスクリューパンチだ。

漫画「あしたのジョー」でチャンピオンのホセが繰り出すコークスクリューは、相手を次々に廃人にしてしまう。ジョーのライバルだったカーロス・リベラはパンチドランカーになり、最後はジョーさえも「真っ白な灰」になる…。

一撃でパンチドランカーになった僕の意識は消失した。時間の経過は覚えていない。気づくと目の前には酒瓶が並んでいた。


「あらあら、大丈夫ですか。珍しいですね、そんなに酔っぱらって」
僕は行きつけのバー「Y」で大人に戻っていた。ショックが大きすぎて過去に留まっていられなかったらしい。バーのママに声を掛けられるまで、随分と眠っていたようだ。

「Y」は落ち着いた雰囲気のバーで、入り組んだ路地の一角に建つ古いビルに入っている。ほとんどが常連客で、品のあるママが静かにもてなしてくれる。いつもはママが選んだ音楽を聴きながら他愛のない話をして、眠ることなどないのだが。

そんなことを言っている場合じゃない。いったい、クーミンはどうしてしまったのだろうか。大事な決戦を前に引っ越したとは、どういうことなのか。クーミンの身に何が起きたのか。

「強い人が好き」
僕の頭の中ではクーミンの言葉がリフレインしていた。
もう決戦に意味はない。肝心の彼女がいない決戦に意味などあるものか。考えれば考えるほど酔いが回り、ママの顔がおぼろげになっていった。


「おい、時間だぞ」「起きないと試合に遅れるぞ」
うるさいなぁ。何言ってんだ、タロージロー。こっちは二日酔いなんだ。もう少し寝かせてくれ。

「そんなことでいいのか」「何のために修行したんだよ」
もういいんだ。クーミンもいないし、意味ないんだよ。もう終わりだ。

昨夜はバー「Y」でスコッチを5杯飲んだところまでしか記憶がない。きっと千鳥足で何とか帰り着いたのだろう。

自分でも情けないけどね。もう、いいんだ。
「そうはいかない」「人にはやるべき時があるんだ」
なんだよ、タロージロー。いやに真面目なことを言うじゃないか。

「切り拓くのは自分だ」「自分しかいないんだ」
タロージローの口調はさらに強くなり、僕の体を何かが包んだ。丸く光を帯びた何かが僕を捉え、過去へ連れ戻した。

「時間になったよ。はよう起きな、初稽古に遅れるよ」
耳元で声が聞こえる。今度はタロージローじゃなくてお袋だった。まるでデジャブだ。

目覚まし時計は午前6時半を指している。試合当日の朝らしい。さっきまでの頭痛や胃の辺りの気持ち悪さは不思議と治まっている。

道場では毎年1月2日が初稽古と決まっていて、その締めくくりに試合をすることになっていた。僕は剣道着の上にジャンパーを着込み、警固小学校の近くにある道場へと向かった。もちろん、竹刀は2本持っている。

初稽古は午前8時開始。小学1年生から6年生まで40人近くが集まっている。僕が二刀流を披露するのは初めてだ。もちろん、ほかに竹刀を2本持っているやつはいない。

「先生、あのう、二刀流でもよかですか」
遠慮がちに、僕は師範代に申し出た。小学生で二刀流なんて聞いたことないし、ダメだと言われても仕方がない。それにタロージローから強制的にタイムスリップさせられたものの、僕にはまだ戦う気力はなかった。

覇気がない様子を見てとったのか、師範代は僕をジロリとにらんだ。
「でも、ちゃあ何か。本当に二刀流がしたいとか」
「はあ、したいとです」
「そんなら、はっきり言わんか」
「はい、二刀流ばさせてください」
「声が小さいっ。しゃきっとせんか」

何度も言われて僕はだんだん腹が立ってきた。

クーミンがいなくなって戦う理由もないのに、ここまできたんだ。爽やかな恋のメロディーを奏でてくれた最愛のクーミンは、もういないんだぞ。それなのに、そこまで言わなくてもいいじゃないか。

と、横から誰かが割って入った。
「あー、1本じゃ勝てんけん2本にしたと?」
アーシだった。「二刀流げな」と誰かが囃し立て、笑い声も聞こえてきた。いつの間にか周りに人だかりができ、小馬鹿にしたような目で僕を見ていた。

「先生、二刀流でやります。いいですね」
僕は頭にくると方言が抜ける癖があった。その方が冷たく言い放てるからだろうか。自分でも驚くほどの大声が道場中に響いた。

「よかろう。覚悟を持ってやれ、小僧」
師範代はニヤリと笑った。僕はドキッとして周囲を見回した。誰も気づいていないけれど、その顔は武蔵だった。

「よーし、みんな集まれ。くじ引きするぞ」
初稽古が終わり、師範代が試合の方法を発表した。低学年、中学年、高学年に分かれてのトーナメント戦だ。僕たち6年生と5年生を合わせた高学年は総勢16人。8人ずつA、Bの2パートで戦い、両パートの優勝者が決定戦を行う。

16人が師範代の周りに集まり、50音順で1人ずつ箱の中からくじを引いていく。紙に番号が書いてあって、1~8がAパート、9~16がBパートだ。

道場の壁には組み合わせの矢倉が張り出されている。Aパートだと1回戦は1と2、3と4、5と6、7と8がそれぞれ対戦。その勝者同士がさらに2回戦を行い、3回戦がパートの優勝決定戦になる。番号の下は空欄になっていて、くじの結果によってそれぞれが自分の名前を書き込んでいく。

クーミンはいないけど、恋の命運を賭けた決戦だ。組み合わせが気にならないわけはない。僕は横目で矢倉をちらちら見ていた。

僕とシマダルマがクーミンを賭けて戦うという噂は広がってるから、僕だけがじーっと見ていて「あいつ、女のために」と冷やかされるのも嫌だった。

僕の番が来た。
「沢村、Aの3」
師範代が読み上げる。初戦の相手となる「Aの4」はまだ空白だ。

次はシマダルマの番。彼に勝つのが目的だから、1回戦で当たってもいいんだけど「強い人が好き」というクーミンの言葉を考えると、優勝決定戦でやっつけるのが一番かっこいい。スポーツ漫画なんて、だいたいそんな筋書だし。

妄想にふけっていると、師範代の声が響いた。
「島田、Bの14」
うん。やっぱりね。お互いにパート優勝しないと対戦できない組み合わせだ。僕は決戦が先に延びて正直少しほっとしていた。でも、ということは3人に勝たなければならない。頭では考えていたけれど、実際に決まってしまうと気分は複雑だった。

そんな気持ちを見透かしたかのように、シマダルマは余裕の表情で僕を一瞥し、名前を書き込んだ。「決勝まで上がってこられるかな」とでも言いたげに。

組み合わせはどんどん決まっていく。師範代が名前を呼ぶ。
「永井、Aの4」
僕の相手が決まった。「とうろう」だ。本名は永井達郎。石材店の息子で、髪型が警固神社の石灯籠みたいに見えると誰かが言いだして、「たつろう」ではなくて「とうろう」と呼ばれていた。

すべての組み合わせが決まり、試合が始まった。ルールは3分間1本勝負。優勝決定戦だけは5分間3本勝負になっている。最初は低学年からなので、僕らは応援に来た親たちに交じって見学だ。

体が冷えないようにジャンパーを着て壁際に立っていると、横から突っつく奴がいる。ヨーコちゃんだった。
「はい、これ。クーミンから渡してって頼まれたけん」
折りたたんだ手紙のようなものだった。

「えっ。○×*△☆!!」
僕は自分で何を言ってるか分からず、動揺して手紙を落としてしまった。
「しっかりし~よ。試合の前に読んでほしいって言いよったけん、ここまで持ってきたとよ」

ヨーコちゃんが拾ってくれた手紙を持って、僕は道場の外に出た。寒風が体を打つ。

「沢村君 何も言わないでいなくなってごめんね。家の事情でどうしても引っ越しすることになって。試合も応援したかったけど、いけないと思う。でも、あれだけ練習したんだもん、きっと勝てるよ。沢村君はきっと強くなれる。強くなれるよ、きっと」

文章はそこで終わっていた。「きっと」が3回も書いてあって、彼女の気持ちを思うと僕は何だか切なくなった。

それにしても、家の事情って何だろう。シマダルマに勝ったら絶対にクーミンを捜そう。
僕は手紙を握りしめて道場に戻った。


episode- 6 影を断ち切る

低学年、中学年と試合は進み、あっという間に時間は過ぎた。
武蔵の顔をした師範代が「沢村」「永井」と名前を呼ぶ。僕は試合場の中央に進み出て、蹲踞(そんきょ)の姿勢を取った。

立ち上がると、ついに試合のゴングが鳴った。いや、ゴングじゃなくて審判をする師範代の「はじめ!」の声なんだけどね。僕の頭の中には「カ~ン」という音が響いていたんだ。決戦のリングに上る矢吹ジョーみたいに。

「とうろう」は小学1年生から道場に通っていて、それなりに強かった。

同学年だけど体格も大きくて、僕よりも頭一つ背が高い。身長だけだとシマダルマと同じぐらいだ。これまでも何度か試合をしたことがあるけれど、勝ったり負けたり。実力はほぼ互角だった。

家は酒屋を営んでいた。簡単なつまみで立ち飲みができる、いわゆる「角打ち」もやっている。僕らは学校帰りに遊びに行って、せんべい、さきイカ、ジュースなんかをご馳走になりながら、野球盤ゲームに夢中になっていた。

今、その辺りにはボウリングとか卓球とかダーツとか、いろいろ遊べるアミューズメント施設が建っている。

考えてみれば、その頃の僕らにとって「とうろう」の家は、まさにアミューズメントだった。


「おいおい、そんなこと考えてる場合じゃないぞ」「相手に集中しろ」
タロージローよ、分かってるさそれくらい。ちょっと思いだしてただけじゃないか。君たちの方が邪魔なんだよ。

僕は中段に構え、とうろうに相対した。右手に大刀、左手に小太刀を持ち、両手をやや開いた形だ。二刀流で試合に臨むのは初めてだし、相手もかなり警戒している。とうろうは体格差を生かしてグイグイくるタイプで、いつもならすぐに打ち込んでくるのだけれど、なかなか動こうとしなかった。

先に打って出るべきかと考えていると、隣の試合場で審判の声が響いた。
「1本! 勝負あり」
道場ではAパートとBパートの試合場が設けられ、それぞれトーナメント戦が進んでいる。様子をうかがうと、視界の隅にシマダルマが映った。勝ったのはシマダルマらしい。試合開始の直後、秒殺だ。やっぱり強い。

と、その時だった。体に風圧が襲ってきた。というより、エネルギー波と言った方がいいかもしれない。
僕はとっさに飛び退いた。目の前に、とうろうの竹刀が振り下ろされるのが、はっきり見えた。危なかった。あと数センチで面を取られていたところだ。

でも、不思議と慌ててはいなかった。相手の竹刀の動きがゆっくりだったからだ。
竹刀ってあんなにゆっくりだったか、タロージロー。
「緩慢に見えたってことだろ」「お前にそう見えたってことさ」

そうか、そうなのか。でも、本当にそうなのだろうか。
僕は仮説を試すため、少し間合いを取り、下段の構えに変えた。「あしたのジョー」に出てくる両手ぶらりの「ノーガード戦法」のようなものだ。

ジョーは、わざと隙を作って相手に打ち込ませ、カウンターを狙う。僕の場合は自分の目と相手の太刀筋を確かめるのが目的だ。ただし、少しでも防御が遅れれば確実に1本を取られて終わる。

僕は両手を下げた。「来い。どこからでも来い」。そう念じながら全身の力を抜いた。

とうろうは一瞬、たじろいだようだったけれど、誘われてじっとしていることもできない様子だった。ついに我慢できず、打ち込んできた。

「ありゃ!」「こりゃ~」
僕の体は無意識に反応した。左手の小太刀がとうろうの竹刀を受け、右手の大刀が面を打ち込んでいた。ありゃりゃん剣だった。


気がつくと、僕は黒猫屋珈琲店にいた。どうやら過去での持ち時間が切れたらしい。右手には確かな手応えが残っている。とうろうに面を打ち込んだところまでは覚えているけれど。

「なんだか、この世の人じゃないって顔してますよ。別の世界に行ってきたんですか」
カウンターの向こうから“ママ”が話しかけてきた。マスターの奥さんではないけれど、いつもいるので客はみんなそう呼んでいる。

何かにつけて好奇心が旺盛で、時々、こちらの内心を見透かしたようなことを言う。全国を旅して福岡にたどり着き、自分のことを「フーテン」と呼ぶ不思議な女性だ。
そのフワフワした雰囲気が、トルコ原産の白い猫、ターキッシュアンゴラみたいで、僕は密かに「キッシュ」と呼んでいた。食べ物みたいだけれど、おいしそうだからいいよね。

「うん。別世界に行けるといいね。どこに行きたい?」
「あたしは江戸時代に行って、お姫様になりたい」

江戸時代か。僕は武蔵を思い出して苦笑した。その一生を兵法に捧げた男は、姫などという華やかな存在とは無縁だったんだろうな。吉川栄治の小説「宮本武蔵」には、かなわぬ恋の相手として「お通」という女性が描かれているけれど、フィクションだし。

僕が出会った武蔵は武骨で、とても恋なんてしそうには見えなかった。でも、根気強く修行に付き合ってくれて、大きな優しさを感じたし、ホームランバーをうまそうに食べる可愛らしいところもあった。

そうだ。こうしてはいられない。帰らないと。試合が待っている。そう思った途端、フーテンのキッシュが抑揚のない口調でこう言った。
「戻るんですね。戻らないとね」
でも、その目は僕を見ているようで見ていない。
はは~ん。これはきっと、タロージローの仕業だな。とうろうとの試合で「君たちこそ邪魔だ」なんて僕が言ったから、すねてるのかもね。それで、彼女の口を借りて話しているのだろう。その時の僕はそう思っていた。

早く過去に戻りたいけれど、時空を超えるにはまだ現代で過ごす時間が必要なのかもしれない。そんなことを考えていると、キッシュがコーヒーを差し出した。
「はい、どうぞ」

黒猫屋には風変わりな名前のオリジナルブレンドがある。デジャヴ、薄櫻(うすざくら)、玉響(たまゆら)…。キッシュがいれたのは「覚醒(めざめ)」だった。マンデリンをベースにした濃厚なストロングコーヒーだ。

苦味のある香りが鼻腔に絡みつくたびに、僕は一段ずつ意識の階段を上っていく。最後の一滴を飲み干した時、空間がモザイク状に歪み、小さな欠片となって砕けていった。

「1本! それまで」
師範代の声を聞いて、僕は剣道場に戻ってきたことを理解した。とうろうは、きょとんとした顔をして突っ立っている。

ともかく、僕は1回戦を突破した。捨て身のノーガード戦法で相手の油断を誘い、何とか勝つことができた。だけど、これが毎回通用するとも思えなかった。

2回戦の相手は、この後に始まる試合の勝者だ。組み合わせ表を見た僕は、嫌な予感がした。そこに「ムリケン」の名前があったからだ。

学年はひとつ下で体は小さいけれど、5年生では一番強い。だいたい、則本健一という名前なのに、無理矢理けんかするから「ムリケン」と呼ばれるほどの暴れん坊なのだ。

いつの間にか、僕の指先はピクピク痙攣していた。
こういうのを武者震いというのだろうか。

そして予想通り、次の相手はムリケンこと則本健一になった。パーマ屋「のりもと」の次男坊だ。

その頃は美容室のことをパーマ屋と言っていた。大名は今でこそ、おしゃれな美容室やショップ、飲食店が密集しているけれど、当時は単なる住宅街で、パーマ屋も数軒しかなかった。


「のりもと」もごく平凡な店で、近所だからうちの母親も客だった。
「あそこは後妻さんやけん、いろいろ大変のごたるね」
「健ちゃんが暴れるともしょんなかたい」
噂好きのハマチのばあばあと、うちの母親が話しているのを聞いたことがある。

ムリケンは再婚した母親の連れ子だった。だから次男なのに「健一」という名前なのだ。学校でよくかんしゃくを起こすのは、家庭内で肩身が狭いからなのだろうか。僕らは子どもながらにも、何となくそんな事情は知っていた。

それにしても、すばしっこい奴だった。試合で対戦したことはないけれど、練習ではいつも負けていた。こちらが竹刀を振り上げようとした瞬間に小手を打つ「出小手」がムリケンの得意技だ。

「なんだ、自信ないのか」「自信がないなら負けだな」
タロージローよ、そんな言い方はないだろ。僕だってあれだけ稽古したんだ。負けるわけにはいかないんだよ。

前の試合が終わった。僕は身支度を整え、試合場に向かった。ふと視線を感じて審判の師範代に目をやると、じっとこちらをにらんでいる。武蔵の顔だった。

「兵法の道において心は常に平常でなくてはならん」
「心を広く素直にして、緊張しすぎず、緩まず、心を真ん中に置くことじゃ」
僕は武蔵に言われ続けたことを思い出した。

「始め!」
試合が始まった。僕は両手ぶらり作戦、つまり下段の構えを取った。
これならムリケンも、得意な出小手は打てない。さて、彼はどうするだろうか。

少し様子を見るか、と思ったその時、ムリケンの体が宙に浮いた。まるでスローモーションの動画を見るように、ふわっと浮いた。こっちに飛び込んできたのだ。

竹刀がうなる。打ち下ろすスピードは予想を超えていた。面を取られる。負けたら終わりだ。すべてが終わってしまう。クーミンとの約束を果たせないまま、僕は情けない男になってしまう。

だが、そんな心の動きとは関係なく、体は勝手に反応した。すんでのところで左の小太刀がムリケンの竹刀を受け止め、それを右の大刀が支えていた。二刀を十文字に組み、僕はムリケンを押し込んだ。
つばぜり合いの形だ。

面を通してムリケンの顔つきを見ながら、その眼光の鋭さに僕はうなった。その光には、憎しみや怒りや哀しさが凝縮されているようだった。

僕は察した。この光を消さなければならない。それもこの時代に送られた自分の役割なのかもしれない、と。

よし、先手を取って一気に決着をつけよう。僕はムリケンが押してくる力を押し戻し、再び押してくる瞬間を狙った。

ふん、とムリケンが息を吐いた。
今だ! 僕は引きながら小太刀でムリケンの竹刀を抑え、大刀で面を狙った。
「ありゃりゃんっ」
ムリケンの眼光が褪せていくのを僕は感じていた。

師範代が右手を挙げて宣告した。
「面あり、1本!」
僕はムリケンを破り、3回戦に進出することになった。

でも、僕はうれしさよりも、ムリケンの面に一撃を加えた時に感じた不思議な手ごたえに戸惑っていた。目には見えないけれど、キラキラした何かの欠片がパーンと飛び散った感覚があった。

あの感覚はいったい何を意味するのだろうか。
「そんなことは知らなくていい」「まだ知らなくていい」
タロージローよ、どういうことなんだよ。教えてくれてもいいじゃないか。君たちは肝心なことは何も言わないんだな。

「知るべき時がきたら分かる」「いずれ分かる時が来る」
なんだよ、それ。もったいぶってさ。まあ、いいや。そんなことを気にしている場合じゃないし。次の相手に集中しないと。


僕は道場の壁に貼られた組み合わせ表に目をやった。当面の相手に勝つことしか考えていなかったので、3回戦の相手はまだ確認していなかったのだ。

トーナメント表を目でたどっていると、後ろから肩をたたく奴がいる。
「あー、次は俺とやね」
アーシだった。

しゃべり方は何となくボーっとしているけれど、アーシは意外に強かった。背丈は僕と同じぐらいで、剣道歴も小学校に入ってからなので、僕と同じ。でも、建設会社の社長をしている父親が有段者で、よく手ほどきしてもらっているらしかった。

「あー、パパは強いけん、大学の道場で教えよっちゃん」と自慢しているのを聞いたことがある。大学生に教えるのだから、かなり強いのだろうと僕は思っていた。

アーシの家は、天神西通りにあった。「天神西通り」という名前は1968年に地元商店主たちが設立した「天神西通り発展期成会」に由来する。とは言え、「西通り」の名が急速に広まったのは80年代に入ってからだ。今では、LINEショップやファストファッションの「H&M」「フォーエバー21」があって、すっかり若者の街になっている。

「あー、クーミンは来とらんっちゃろ。そんなら勝たんでもいいっちゃない?」
アーシは思いのほか挑戦的だった。僕がポカンとしていると、隣にいたヨーコちゃんが「クーミンがおらんでも負けるわけにはいかんとよ」と口を出した。

それを聞いたアーシは、憮然とした表情で言った。
「あー、ヨーコちゃんは関係なかろうもん」
「だって、うち、クーミンからこの人を応援してって頼まれたけん」
「あー、クーミンの代わりってね? そんなら俺が勝ったら、ヨーコちゃんに言うこと聞いてもらうばい」

何だか雲行きが怪しくなってきた。アーシはいったい何でこんなに意地を張っているのだろうか。僕にはその理由がまだ分かっていなかった。

ヨーコちゃんとは生まれた時からの幼なじみだった。生け花を教えていたうちのばあちゃんが、ヨーコちゃん一家が営む生花店から花を仕入れていたのが縁で、家族ぐるみの付き合いを続けていた。僕にとって彼女は、ある時は姉、ある時は妹のような存在だった。

幼稚園も一緒で、僕が武蔵と稽古を積んだ若宮神社の隣にあった。そういえばアーシも通っていたっけ。お遊戯会でヨーコちゃんがシンデレラ役をやった時、なぜか僕は先生から王子役に指名された。白いタイツが嫌で、僕は渋々引き受けたんだけれど、思えばあれが主役級を演じた人生唯一の晴れ舞台だったかもしれない。

その時、アーシはカボチャの馬車の「馬」役だった。カボチャを食べていたネズミが魔女の魔法で馬になる、というストーリーなので、アーシは1人2役。とぼけた感じでネズミと馬をうまく演じて、観客には受けていた。

当時はザ・ドリフターズのコント番組「8時だョ!全員集合」が大流行していた頃。僕はキザな王子役よりも、ちょっと人を笑わせるネズミと馬の役の方がいいなあ、とうらやましい気分だった。

でも、アーシは逆だったらしい。
王子になれなかったのがよほど悔しかったのだろう。小学校に入ってからも「あー、お前、つやつけとーね」と僕に悪態をついていた。「つやつける」というのは方言で「格好つけやがって」というぐらいの意味。相手をからかう時につかう言葉だ。

そんなことを思い出していて、僕はふと気づいた。ひょっとするとアーシは、ヨーコちゃんのことが好きなのではないだろうか。僕が言うのも何だが、ヨーコちゃんは目がくりっとしていて、TVドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」のヒロイン、有村架純みたいなタイプだった。

僕にとっては身内同然だけれど、クラスにも結構、ヨーコちゃんのファンは多かった。だからアーシは僕に対抗意識を燃やしているのだろうか。いや、それはお門違いというものだ。そんなことで邪魔されては困る。

しかし、アーシは「俺が勝ったら、ヨーコちゃんに言うことを聞いてもらう」と宣言したわけだ。ヨーコちゃんの気持ちは分からないけれど、僕としてもアーシの“上から目線”的な言い方はどうかと思う。

あ~あ、なんだかな~。考えていると頭の中がカオス状態になってきた。クーミンのために戦う僕、その僕を応援してくれているヨーコちゃん、ヨーコちゃんを奪おうとするアーシ…。
これって三角関係? じゃあなくて四角関係? いや。そこにクーミンを狙うシマダルマも加わるわけだから、五角関係? 僕の脳内ニューロンは、うにゅうにゅと伸びて固まってしまった。


「また余計なことを考えてるな」「意味のないことを考えてどうする」
タロージロー、そんなことは言われなくても分かってるさ。でもね、考えてしまうのが人情ってもんじゃないか。あ、君たちは猫だから違うか。

「失礼な、俺たちは猫じゃない」「猫の姿をしているだけだ」
え? 猫じゃなかったの。じゃあ、君たちはいったい何なの?

「そんなことは知らなくていい」「まだ知る必要はない」
あ~、もう。ますます頭が混乱してきたじゃないか。試合が始まろうって時に。

そうだった。いろいろ考えているうちに時間が来た。3回戦。これに勝てばAパート優勝が決まる。あと一息なのだ。無心にならなくては。

アーシが対面で準備をしている。防具を着け、正座している。僕も準備に取り掛からなければ。そう思ってアーシの手元を見て、僕はのけぞりそうになった。

竹刀が2本ある。大刀と小太刀。まさか!

アーシが二刀流? 予想もしなかった事態に、僕はしばらく身動きできなかった。
なぜアーシが…。いつから僕の二刀流に気づいていたのだろうか。

「そう言えば」と隣にいたヨーコちゃんが話し始めた。
冬休みになる少し前のこと、アーシが学校で「俺、沢村の秘密知っとうぜ」とうれしそうにしゃべりかけてきたという。

そういう風にヨーコちゃんの気を引こうとするのはいつものことなので、知らんぷりをしようとしたけれど、その時は無視できなかったらしい。

「うちも、まー坊が1人で二刀流しよったのを見とったけんね」
そうそう、そうだった。ヨーコちゃんには若宮神社で武蔵と稽古しているところを見られていたんだった。もちろん、彼女に見えたのは僕だけなのだけれど。

「だけんね、なぁん、もったいぶらんで教えり~よ、って言ったらね。『西新たい、西新』てアーシが言うっちゃん。うち、何のことか分からんし、あんまりアーシとしゃべりたくないけん、それ以上は聞かんかったと」

ヨーコちゃんの話を聞いて思い出した。僕は西新に二刀流の竹刀を買いに行く途中、アーシにばったり会っていた。あの時はごまかしたと思っていたけれど、きっと後をつけてきたのだろう。
やっぱり、しつこい奴だ。

僕が二刀流を始めたのを知ったアーシは、大学で剣道を教えている父親にねだって、あの西新の武道具店「武仁堂」で竹刀を買い揃え、稽古をつけてもらったらしい。それはずっと後になって、アーシから聞いた話だけれど。

「また余計なことを考えてるな」「そんなに自信がないのか」
タロージローよ、だって想定外なんだから仕方ないじゃないか。だいたい二刀流を相手に練習したことなんてないんだぞ。

「そうかそうか。でも、相手もそうなんじゃないか」「お互いさまだろ」
そりゃあそうかもしれないけど。動揺するのはしょうがないだろ。

頭の中に浮かんでくるタロージローの言葉を追っていると、アーシが声を上げた。
「先生、僕も二刀流でやります。よかですよね」
師範代は一瞬、武蔵の顔で僕をジロリと見て言った。
「よかろう。沢村は早く準備するように」

はいはい、分かりましたよ。やるしかないんだし。いくらアーシが二刀流で向かってくるとはいっても、どうせ格好だけに違いない。
それに、負けたらクーミンとの約束が果たせないばかりか、「ヨーコちゃんに言うことを聞いてもらう」というアーシの宣言を受け入れなくてはならなくなるんだ。

それでは男の面目がつぶれる。面目なんて言葉、うちのばあちゃんが見ている時代劇で「面目次第もございません」って負けた方が言うのを聞いて覚えたんだけれど、こんな時に使うんだろうな。

竹刀を2本持った2人が試合場に進み出ると、場内は異様な盛り上がりを見せた。たぶん全員が初めて見る小学生同士の二刀流対決なのだ。もし新聞やらテレビやらが取材に来ていたら、ちょっとしたニュースになったかもしれない。

一礼して構えると、師範代の声がかかった。
「始め!」
僕は相手の出方を見るため、基本通り、中段の構えを取った。
ところが、アーシは一歩引いたかと思うと、ゆっくり構えを下げた。
両手ぶらりじゃないか! なんなんだ、こいつは。


両手ぶらり戦法を取るアーシを前に、僕はしばらく動けないでいた。
アーシはどのくらい二刀流を知っているのだろうか。どうせ格好だけに違いない。いや、道具まで揃えているし、親父さんは剣道の先生なのだ。きっと教わっている。

いつも抜け目のない奴なんだし。いやいや、そうやって僕を惑わせるのが作戦なのかもしれない。実際、こうやって僕は迷っているのだから…。

考えても答えは出なかった。それどころか、思考は堂々巡りに陥っていった。
「ドツボにはまったな」「影に怯えてどうする」
なんだよタロージロー。影ってなんのことだよ。

肝心な時にタロージローからの返答はなかった。でも、このままじっとしているわけにはいかない。試合時間は3分しかないんだ。この試合に延長戦はない。引き分けたらくじ引きで優勝決定戦の出場者を決めることになっていた。
はっきり勝負をつけないと、運を天に任せることになってしまう。それは嫌だった。

僕はすーっと息を吸い込み、目を閉じてみた。まだアーシが打ち込んでくる気配はない。会場は小学生同士の二刀流の戦いがどう展開するのか見逃すまいと、静まり返っている。
トクトク、トクトク、と心臓の鼓動が聞こえる。

「心を真ん中に置け」。僕は武蔵の言葉を思い出した。そうだ。何を迷っていたのだろうか。敵と戦う前に、僕は自分と闘わなくてはいけなかったのだ。自分の「迷う心」と闘って勝たなくてはいけなかったのだ。

心は定まった。敵が誰であろうと、どんな戦術を使おうと、僕は武蔵との稽古で身に付けた全ての力を出し尽くすだけだ。そうだろ、タロージロー。

アーシは僕を誘っている。両手ぶらりは隙だらけに見えるけれど、相手に打ち込ませて受けて技を返すつもりなのだ。僕の両手ぶらりと戦った相手も、きっとそんなことを考えただろう。

そうか。タロージローが言った「影」とはそういうことか。アーシは僕の影。僕は自分の分身と戦っているようなものなのだ。

時間がない。僕は一気に勝負をかけることにした。影を動かすには本体が動くほかない。そして影を断ち切ることができるのもまた、本体しかないのだ。

その時、試合場をふっと風が吹き抜けた。誰かが道場の扉を開けたのだ。
同時にドン、と床を蹴る音がした。僕の右足が踏み込んだ音だった。場内の淀んだ空気が揺れた瞬間を狙ったのだと思う。「思う」というのは、僕に確信がないからだ。動いたのは意識ではなく、体が先だったからね。

「ありゃりゃん」
僕の体はアーシの間合いに飛び込み、右手の大刀が面を打った。
アーシは左手の小太刀で受け流し、右手の大刀で面を打つ。
あしたのジョーで言えば、クロスカウンターみたいなものだ。

アーシはこの必殺技を狙っていたのだろう。
ここで、僕が左の小太刀で受け、右の大刀で面を打てば、最初の場面に戻る。そしてまた同じことの繰り返しだ。そうしながら、相手の隙を狙うのが常道だろう。頭の中ではそうなると考えていた。

でも、実際は違った。
「こりゃりゃん」
アーシの大刀を左で受けた次の瞬間。右の大刀は、アーシの胴を払っていた。
説明が難しいんだけれど、それは頭じゃなくて、体が考えた技だった。


道場は静まり返っていた。何も聞こえない。僕は何をしていたのだろう。
そうだ。若宮神社の境内で武蔵と向き合っていたんだ。風が脳天に振り下りてくる。武蔵の真剣が額に突き刺さる寸前、僕はその刃をまばたきもせずに睨んでいた。

いや、違う。学校帰り、クーミンと並んで歩きながらその日の出来事をぽつりぽつりと話していたんだ。山瓦先生ってどうしてあんなに怒りっぽいのか、とか。
あ、山瓦というのは担任の山下先生のニックネームで。鬼瓦みたいな顔をしていたから、みんなこっそり山瓦と呼んでいたんだ。

そんな話をしていても、僕は上の空だった。隣でスキップするクーミンのすらりとした足に見とれていたからね。そういえばクーミンはどこにいるのだろう。二人で見つけた野良猫が路地裏にちょろちょろと逃げ込んでいくのを眺めるだけで楽しかったのに。

「なに考えてるんだ」「どこにいるか分かってるのか」
頭の中に文字が浮かんだ。そうか。タロージロー。君たちか。
僕はいったい何をしてるんだい? 何をしてたんだっけ? 天国にでもいる気分だよ。

その時。うなりのようなものが聞こえてきた。歓声ともどよめきともつかない響きが道場にあふれている。
「まー坊! まー坊!」
ヨーコちゃんの声だ。僕は自分の右手が痺れているのに気づいた。そうだ。僕は相手の胴を払ったのだ。

振り向くと、そこには両手をぶらりと下げたままのアーシがいた。
「1本、それまで」
武蔵の顔をした師範代が右手を高く掲げて宣言した。その表情は気のせいか、いつもより眉間のしわが緩く見えた。

勝った。僕は勝ったのだ。武蔵の顔を見てようやく僕は我に返った。

それにしても長い3分間だった。まさかアーシが二刀流で向かってこようとは夢にも思っていなかったし、まして両手ぶらり戦法を使ってくるなんて、僕としては「青天の霹靂」というやつだった。

試合を終えても、アーシはうなだれたままだった。なんせ「俺が勝ったら、ヨーコちゃんに言うことを聞いてもらう」と大げさに宣言していたわけだから。男のメンツが立たないよね。小学生の僕にだってそのくらいは分かる。大人だったら「痛恨の極み」とでも言うのだろう。ちょっとかわいそうになってしまう。


「おいおい、そんなこと言ってる場合か」「余裕かましていていいのか」
タロージローよ、別にそういうことじゃないよ。たまたま戦ったけど友達なんだから、気になるじゃないか。

とは言え、タロージローの言うことも、もっともだった。アーシに勝って、僕はAパート優勝を決めた。そして、次はいよいよ優勝決定戦。相手はBパートで早々と優勝を決めているシマダルマなのだ。

毎年のように決定戦に進出しているシマダルマにとっては予定通りだろうけれど、紙一重の差で勝ち抜いてきた僕には初めての大舞台。緊張しないわけがない。

よし。試合まで、まだ時間がある。もう一度、精神集中しよう。そう思って道場の玄関から外に出た時だった。
「お前、クーミンから手紙もらったらしいな」
いつもよりずーっと怖い顔をしたシマダルマが立っていた。なんでそのことを知ってるんだろう。

まさか?
すると、シマダルマの後ろにいたヨーコちゃんが、ペロッと舌を出した。
ええ~、そりゃないよ。
「ヨーコちゃん、どうして?」と叫ぼうとした時、僕の周りの空間はモザイク状に歪んで砕け散った。


episode- 7 怒りとの戦い

コーヒーの香りがする。また過去での持ち時間が切れて、現代に戻ってきたようだ。黒猫屋珈琲店のカウンターでは、無口なマスターが自家焙煎のコーヒーを淹れている。

マスターは京都の出身で、実家も喫茶店だった。「喫茶店のマスターにだけはなるなよ、というのが父の遺言だったんですがね」とボソッと話すのを聞いたことがある。
画家志望だった父親は、生計を立てるために喫茶店を開業したものの、店が忙しくて結局は志を遂げられなかった。息子にそんな思いをさせたくないと考えたのかもしれない。

それでマスターは実家を継がずに会社員になったのだけれど、転勤で訪れた福岡で、なぜか店を開くことになった。それも宿命というものなのかもしれない。

僕がシマダルマと戦うことになったのも、宿命なんだろうか。いやいや、僕はクーミンのことが好きなだけなんだけど。そもそも、クーミンが「強い人が好き」なんて言わなければ、こんなことにはならなかった。

あれはクーミンの気まぐれだったのだろうか。それとも…。
答えの出ない自問自答を繰り返していると「あのね、聞いてくれる?」と、カウンターの向こうから声がした。フーテンのキッシュだ。

彼女は放浪するのが趣味で、自分を「フーテン」と呼んでいる。トルコ原産の白い猫、ターキッシュアンゴラに似ているから、僕が「キッシュ」と名付けた。発想が跳んでいて不思議系なので、マスターは「ネコに化けたタヌキ」って言ってるけどね。

「あたしね、沢尻エリカに似てるんだって。インターネットの性格診断なんだけど」

キッシュはうれしそうだけれど、「でも、それって性格診断だよね」と念を押すと「あら、そうね。性格だった。ってことは女王様? 」と笑った。やっぱりうれしそうだ。

まあ、女性はみんな女王様になりたいのかもね。クーミンだって、そうなのかもしれない。自分のために2人の男が戦うわけだから、うれしくないわけはないよね。クーミンも女王様体質なんだろうか。

「お前、分かってないな」「相変わらず分かってないよね」
なんだよ、タロージロー。勝手に人の頭の中をのぞかないでくれよ。いったい何が分かってないっていうんだ。

「それはまだ言えない」「言いたくもないけどね」
なんだ、それ。だいたいさ、小学生の僕が女性の気持ちなんて分かるわけないんだよ。

ヨーコちゃんだって、なぜかシマダルマにクーミンの手紙のことをばらしてしまったしさ。シマダルマを余計に怒らせてしまったじゃないか。

「怒ったっていいじゃないか」「何が悪いんだ」
怒ったら力が出るだろ。まるでスーパーサイヤ人に変身したみたいだったぞ。それでなくてもシマダルマは強いんだから。

「たしかに怒りは力の源になる」「でもそれだけじゃない」
それ、どういうことだよ。

「もう時が来た」「戻る時が来た」
おい、教えてくれよ。タロージロー。頼むよ。

しかし、心の中でいくら叫んでも、タロージローからの返答はなかった。僕は歪んでいく周囲の空間に身を委ねるしかなかった。


気がつくと、目の前にはシマダルマがいた。仁王立ちというのは、こういうことなのだろう。腕組みして僕を見下ろしている。

よく見ると、また大きくなったみたいだ。冬休みの間に成長したのか。いやいや、いくら成長期でもそんな短期間に背が伸びるわけがない。きっと僕が気圧されてそう感じるだけなのだろう。

「なんかきさん、勝負の前にこそこそ手紙ばもろうたりして。たいがいしとけよ」
そこらじゅうに響き渡るような声だった。やっぱりシマダルマはかなり怒っている。

僕が男のヤキモチの怖さを初めて知ったのは、この時だった。まさに怒れる最強の男だ。そんな相手に勝てるわけがない。

あ、「なんかきさん」というのは「なんだこの野郎」。「たいがいしとけよ」は「いい加減にしろよ」という意味の方言。現代ではあまり使わなくなったけれど、小学生の頃は何の疑問もなく使っていた。

そんな解説をしてる場合じゃなかった。黙っていると、シマダルマの怒りはさらに爆発しそうなのだ。僕は何とか彼をなだめようと言葉を探したが、何を言っても収まりそうになかった。

すると、後ろから意外な声が飛んできた。
「クーミンはね、まー坊に頑張ってって書いとったとよ。島田君ばやっつけてって書いとったと」
ええええ~! ヨーコちゃん、何言ってるの? 今そんなこと言ってどうすんの。火に油を注ぐだけじゃないか。
驚いた顔で振り返ると、ヨーコちゃんはまたペロッと舌を出した。

僕はもう、シマダルマの顔を見たくなかった。とにかくその場を逃げ出したかった。そうだ、タロージロー、何とかしてくれ。現代に戻してくれ。僕は心の中で叫んだけれど、タロージローからは何の返答もなかった。

背筋に鼻息を感じた。荒い鼻息だ。飛ばされそうな鼻息だ。
「きさん、絶対ぼてくりこかす!」
振り向くと目の前に、シマダルマの大きな顔があった。「ぼてくりこかす」というのは「ぶっ飛ばす」という意味で、ケンカの売り言葉では最上級の表現だ。

そう。シマダルマの頭の中では、僕との試合はすでに試合ではない。「ケンカ」になっているのだ。きっと僕に勝ち目はない。
失恋はもはや避けがたい運命なのだ。

「ぼてくりこかす」と、何度も捨て台詞を吐いて道場に向かうシマダルマを見ながら、僕は深いため息をついた。
「あ~あ、どげんしょうか」

すると、隣にいたヨーコちゃんが僕の顔をのぞき込んで、また意外なことを言った。
「ね、良かったろ?」
全く意味が分からなかった。良いわけがないじゃないか。

きょとんとしていると、ヨーコちゃんは続けた。
「だって、シマダルマって頭に来るもん。威張っとうし。あれくらい言うてやりたかったと」
気持ちはありがたいけど、逆効果だよ、ヨーコちゃん。
と、その時は思っていたのだが…。


もう、試合が始まる時間だった。道場の中は、出場した選手やその家族で満杯になっていた。新年の稽古始めで試合するのは毎年のことだけれど、こんなに人が集まったのを見るのは初めてだった。

「すごかぁ。まー坊、なんでこげん人がおると?」
ヨーコちゃんに言われなくても、僕が聞きたいよ。

でもね、きっと小学生の二刀流が珍しいからだよ。シマダルマは低学年の頃からいろんな大会で優勝している。実績のない“普通の豆剣士”の僕との対戦結果を予想するのは簡単だ。
賭けをすれば、たぶん99%の人がシマダルマに入れるだろう。僕に賭けるのは、大穴狙いの変人くらいだ。そう思うと気が楽になった。

人波をかきわけ、道場に入ろうとした時だった。
「あー、沢村、いいこと教えちゃろうか」
アーシだった。
「クーミンが見に来とうばい」

僕はもう少しで竹刀を落とすところだった。
そうだ、クーミンだ。自分でも気づかなかったけれど、試合に意識が集中していて、彼女のことは忘れていた。でも、アーシのひと言で、あの切ない感情が蘇ってきてしまった。道場を見渡したけれど、彼女の影はない。

僕の狼狽ぶりを見て取ったのか、アーシは「ひゃひゃひゃ」と笑って言った。
「あー、ウソたい、ウソ。来とうかもしれんって言うたったい」

もう、なんだこいつ。「お前、いい加減にしろ」と言おうとした瞬間、アーシは真顔で僕を見た。
「あー、沢村。勝てよ。みんなお前が勝つって言いよったばい。期待されとっちゃけん」
なんだそれ。いつもシマダルマの子分みたいにしてたくせに。どういう風の吹き回しなんだ?

それに「期待」ってなんだ。また僕をからかっているんだろ。でも、そういわれて周囲に目をやると、みんなが僕を見ている気がする。
え? 本当に? いやいや、それは自意識過剰ってやつだ。いや、でも現実に優勝決定戦まで勝ち上がってきたわけだし、本当に期待されているのかもしれない。

相反する考えが頭を巡り、僕はだんだん混乱してきた。道場で面を着けていても、紐を絞める指に力が入らない。立ち上がると体はカチンコチンに固まっている。まるでロボットにでもなった気分だ。

目の前には、準備を済ませたシマダルマが立っている。離れていても、頭から湯気が立ち上っているのがわかるくらい、殺気を放っている。

僕は師範代を見た。相変わらず、僕には武蔵の顔に見える。
「心を広く素直にして、緊張しすぎず、緩まず、心を真ん中に置くことじゃ」
武蔵は何も言わないけれど、僕は修行で何度も教えられた「兵法の道」を思い起こしていた。

みんなが期待するように、僕はシマダルマに勝てるのだろうか。試合場で向き合うと、想像以上にその体はデカくて、圧倒的な存在感があった。
だが、もう、考える時間はなかった。武蔵の口が開いた。
「始め!」
蹲踞(そんきょ)の姿勢から二刀流、中段の構えを取った瞬間だった。
「むん」「むん」
シマダルマの剣が真上から打ち下ろしてくる。速いだけじゃない。何とか左手の小太刀で受け止めているけれど、1本1本が重くて、しかも太い。

竹刀の太さは同じくらいのはずだけれど、そう感じるのだ。それが高速でドスン、ドスンと脳天に炸裂する。

これじゃあ、まるで工事現場の杭だ。いくら地盤が固くても、作業員は容赦なく打ち込み作業を続ける。地盤を貫けないのに打ち込み続ければ、杭が折れてしまう。
作業員なら杭がもったいないと思って少し工夫をするだろうけれど、シマダルマにそんな考えはない。ひたすら「むん、むん」と打ち下ろしてくる。

試合が始まった当初は「まー坊、頑張れ~」とか「沢村!」とか、僕への声援も聞こえていた。しかし、シマダルマの脳天杭打ち攻撃が続くうちに、声援も聞こえなくなった。
「むん、むん」「むん、むん」
シマダルマの荒い鼻息と、重い打撃を受け止める僕の竹刀のきしむ音だけが、道場を支配していた。

面を打つ時は、普通なら「めーん」と気合を入れた声を出す。それだけに、鼻息だけの攻撃は余計に不気味だったのだろう。観戦していた人たちはみんな押し黙ってしまった。

僕は、何とか間合いを取ろうと必死だった。回り込んだり、後ずさったりしようとしたが、シマダルマは意外に敏捷で、その動きにもついてくる。
次第に僕は、試合場の角に追い詰められていった。このまま外に出ると反則で1本取られてしまう。かと言って、反撃しようにもシマダルマに隙はなかった。

このまま、ひたすら脳天杭打ち攻撃を受け続けるしかないのか。タロージロー、こういう時こそアドバイスしてくれよ。と願ってみても、頭の中には何の言葉も浮かばない。もちろん、師範代の武蔵も審判としてじっとこちらを見ているだけだ。

それでも、負けるわけにはいかない。負けたら、もう二度とクーミンには会えない。そんな気がしていた。その思いだけが、防御する左手の竹刀を支えていた。

そして…。何百発目の攻撃だったかは覚えていない。シマダルマは一瞬、深く息を吸い込んだかと思うと、それまでより大きく振りかぶり、体重を乗せた一撃を打ち込んできた。

まるで宇宙戦艦ヤマトの波動砲だった。全てを吹き飛ばすかのような、ドーンという衝撃が僕を襲った。
僕の左手は頑張った。何とか受け止め、跳ね返そうとした。いや、跳ね返したつもりだった。

しかし、僕の感覚とは裏腹に、衝撃が脳天を襲った。面を着けていても頭頂部は痺れ、強烈な電流が全身を貫き、つま先まで伝わった。
「面あり、1本!」
武蔵の声を僕はどこか遠くのところで聞いていた。

いや、実際には聞こえていなかったのかもしれない。それほど全身の感覚はマヒしていた。魂は肉体を抜け出して、天国への階段を上っていた。

いつの間にか僕は床に倒れていた。
「何を寝てるんだ」「いつまで寝てるんだ」
タロージロー、今ごろ何だよ。どうせ、こうなるって分かってたんだろ? 君たちには。

「さあね」「さあ、どうだろね」
まあ、いいけどさ。それにしても凄い衝撃だった。まだ頭がふらついている。それでも、完全にあきらめるわけにはいかない。3本勝負だから、巻き返せる可能性は残っているんだし。ほんとに小さな可能性かもしれないけど。


立ち上がろうとしたその時だった。左手に握った小太刀の様子が変だ。なんだか、ふにゃふにゃしている。持ち上げてみたけれど、視界に入った物体が何なのか、最初は理解できなかった。

これは? なぁんだ、折れてるんだ。小太刀が真っ二つに折れていた。ま、あれだけの攻撃を受け続けたんだから、そういうこともあるかもしれない。
ぼーっとした頭でそう考えていると、ヨーコちゃんの声がした。
「まー坊、竹刀どげんすると? もう、ないっちゃないと」

そうだ! 小太刀は1本しか持っていなかった。ということは、もう二刀流が使えない。それは僕にとって、絶望を意味していた。

「なんだ、折れたのか」「ほー、折れてるね」
タロージローよ、まるで他人事だね、君たちは。

「そりゃあ他人だからな」「他人には違いない」
そうだけど、少しくらい助けてくれてもいいじゃないか。まあ、こういう時に君たちが頼りにならないことはもう分かってるけどね。

仕方がない。竹刀1本で戦うしかない。このところ、二刀流ばかり練習してきたから、勝てる自信は全くないけれど。とにかく戦うしかない。

覚悟を決めて立ち上がろうとしたその時だった。場外から3匹の子猫が僕の顔をのぞき込んでいる。
なんで子猫たちが? そんなはずはないよね、と思ってよく見ると、とうろう、ムリケン、アーシの顔が並んでいた。これまで僕と戦ってきた3人だ。どうやら僕の意識はまだ朦朧としているらしい。

ぼーっとしていると、普段は無口なとうろうが大声で言った。
「俺は今、猛烈に感動している」
なんだよ、そのセリフ。「巨人の星」の星飛雄馬じゃないか。

ちょっと解説すると…。剛速球投手の飛雄馬は高校に入学するが、捕球できるキャッチャーがいなくて失意の底にあった。そこに現れたのが柔道部の暴れん坊、伴宙太。伴は飛雄馬の球をぼろぼろになりながら受け続け、ついにキャッチする。その時、飛雄馬が大粒の涙を流しながら胸の内でつぶやく言葉が、これだ。

ちょうどアニメが放映されていたので、小学生の間では「決め台詞」として流行っていた。僕らはとうろうの家で野球盤ゲームをしながら、何かというとこの言葉を使って喜んでいたのだった。

僕はちょっぴりうれしかった。なぜ「感動」したのかよく分からなかったけれど、どうやら励ましてくれているらしい。1本取られてがっくりきていたので、少し元気が出た。

すると…。
「あー、俺も猛烈に感動している」
アーシだった。
きょとんとしている僕に、アーシは続けて言った。
「あー、沢村、これ使いやい」

目の前に差し出されたのは、小太刀だった。
そうだ。そうだった。忘れていた。僕のほかにもう一人、二刀流がいたんだった。
これを借りれば戦える! 僕にはその時、アーシの顔が天使に見えた。普段は嫌味っぽいやつだけれど、人って分からないもんだ。

「ほんとに借りていいとや? シマダルマにうらまれるぜ」
「あー、よかよか。頑張りやい。シマダルマの時代ば終わらせやい」
アーシが強気なのは謎だなぁ。大丈夫なんだろうか、と思いながらも、僕は小太刀を受け取った。

「まー坊、よかったね。頑張り~よ」
ヨーコちゃんの声を背に、僕は試合場の中央に戻った。武蔵の顔をした師範代は僕の小太刀を点検すると「よかろう」と短く言って、試合再開を促した。

シマダルマの眼光は、それまでにも増して鋭くなっている。肩の辺りからはメラメラと真っ赤な炎が立ち上っているみたいだ。そりゃあ、気に食わないよね。みんな僕の味方みたいになってるんだから。

でも、そのことに気づいたおかげで、僕は少し冷静さを取り戻し、武蔵との稽古を思い出した。敵に対峙した時、武蔵は眉間にしわを寄せ、少し目を細めていた。目玉を動かさず、瞬きもしない。1点を見つめず、広く周囲を観察していた。

よし、まずは基本に立ち戻ろう。心を真ん中に、力まず、相手をよく見る。シマダルマだって同じ小学6年生。きっと弱点はあるはずだ。

「始め!」
武蔵の顔をした師範代の声が響く。試合再開だ。

さっきは勢いに押され、一方的に打ち込まれ続けた。もっと相手をよく観察して「真ん中の心」で対応しなくては勝ち目がない。

シマダルマは確かに大きい。僕の背丈は彼の肩口ぐらいまでしかない。あらためてそう思って肩口を見ていて、僕はあることに気づいた。
シマダルマの肩が上下に動いているのだ。そうか。あれだけ連続して面を打ち込んできたんだから、いくらシマダルマでも疲れてきているんじゃないだろうか。

怒りは力の源になるけれど、それだけじゃないとタロージローは言っていた。あの時は聞き流したけれど、このことだったんだ。シマダルマは怒りに任せて冷静な判断を失って、エネルギーを消費しすぎたに違いない。ということは、もっと怒らせれば勝機があるかもしれない。
よし、イチかバチかやってみよう。

「あー、出た出た、両手ぶらりたい」
アーシの声が聞こえた。そう。僕は覚悟を決めて下段に構えたのだ。
シマダルマの顔色が変わったのが分かった。怒りはさらに増している。思った通りだ。

次の瞬間、目の前に竹刀が飛んできた。「俺にそんなものが通用するか」とでもいうように、切っ先を振り下ろしてくる。思った通り、脳天杭打ち攻撃だ。

「やられるぞ」「見ちゃおれん」
なんだよ、タロージロー。こんな時に邪魔なんだよ。いいから黙って見ていてくれ。

僕には、シマダルマの切っ先がしっかり見えていた。というか、感じていた。さっきまで何百発も受けたおかげで、体が間合いを覚えていたらしい。

それは、ほんの数ミリの差だったかもしれない。僕はシマダルマが面をとらえる寸前で、上体を後ろにそらした。ボクシングで言うスウェーバックだ。

稽古で何度も目の前に突き付けられた武蔵の真剣に比べれば、いかにシマダルマとは言っても、速さも気迫も違う。さっきまでは自分がうろたえて受け身になっていたから、それが分からなかったんだろう。

それでも、シマダルマは攻撃の手を緩めない。僕はゆらゆら、のらりくらり、切っ先をよけ続けた。
「まー坊、なんしようと! もう時間がないよ」
ヨーコちゃんの声が聞こえる。そうだった。5分間3本勝負だけど、時間切れになれば1本取ったシマダルマの優勢勝ちになってしまう。

な~んてね。ちゃんと分かってるよ、ヨーコちゃん。あと少しだから。
僕はシマダルマの動きを見極めようとしていた。そして、少しずつ竹刀の振りが鈍くなってきたことに気づいていた。

そろそろ、だな。僕は一瞬、気を抜いた。
「なんだなんだ」「気を抜くな」
うるさいな、タロージロー。静かに見てろって。

その直後。
「ふん」
僕の気迫が弱くなったと感じたシマダルマは、大きく振りかぶり、とどめの一発を放ってきた。仕留めるつもりの強烈な杭打ち攻撃だった。

…数秒後だった。
「おおおお」
静まり返っていた会場は、言葉にならないどよめきに包まれた。


「1本!」
武蔵の顔をした師範代が旗を上げたのが分かった。

僕は何も考えていなかった。あそこに打とうとか、こうしようとか。頭の中のスクリーンには、何も映っていなかった。
ただひたすら、シマダルマを見て、いや、正確にはシマダルマの「辺り」を眺めて、自分の体が反応するのを待っていた。

だから、武蔵の顔をした師範代が「1本」の旗を上げた時も、実は何が起きたかよく分かっていなかった。

「じゃあ、巻き戻してやろう」「そうだな、巻き戻そう」
タロージロー、何を言ってるんだ。巻き戻すってなんだよ。
「時間を逆回転させるのさ」「ビデオみたいにね」
君たち、そんなこともできるのか。まあ、そうか。僕を過去に送り込んだぐらいだから、そんなことぐらい朝飯前、ってわけか。

「現在、過去、未来」「宇宙には無数の時間が存在する」
ふ~ん。じゃあ、地球がたくさんあるってこと?
「そんなに単純じゃないけどな」「まあ、そんなもんだ」
何だよ、君たちはほんとにいつも偉そうだな。タロージロー。

気がついたら、僕はシマダルマと向かい合っていた。はは~ん。武蔵の顔をした師範代が旗を上げる前のシーンだな。

シマダルマの顔がアップになる。瞳孔が一瞬大きく開いた。その時、両手ぶらりの僕が左手の小太刀を顔の前に持ち上げて叫んだ。
「ありゃ」
シマダルマが大きく振りかぶり、「ふん」と打ち下ろす。
それは「ふん」の「ふ」のタイミングだった。
僕はシマダルマの懐に跳んだ。右手の竹刀が胴を払う。
「りゃ~ん」
抜き胴だった。
僕はシマダルマが竹刀を振り下ろす寸前、胴を奪ったのだった。

「1本!」
武蔵の顔をした師範代が旗を上げると、会場がどよめく。
「すごいすごい、まー坊、すごかぁ」
ヨーコちゃんが両手に握りこぶしを作ってガッツポーズしている。
「あー、沢村、サワムラ~」
アーシが何度も僕の名前を叫んでいる。

脳内スクリーンにシマダルマが映る。振りかぶったまま、しばらく動かない。明らかにあっけにとられている様子だ。
それもそうだ。決勝戦まで誰からも1本も取られていないんだから。きっと、頭の中は混乱していたに違いない。


episode- 8 決闘の果てに

再現フィルムはそこまでだった。
「もういいだろ」「あとはよろしく」
おいおい、タロージロー、よろしくってどういうことだよ。時間を動かせるんだったら、この先どうなるか少し教えてくれてもいいじゃないか。

ようやく1本取ったけど、僕にはまだシマダルマに勝てる自信はなかった。何でもいいからヒントが欲しかった。そう思って、頭の中でタロージローの言葉を探したけれど、もう何も浮かばない。

すると、ゴジラの雄叫びのような声が聞こえた。
「おあああああ、くそっ」
シマダルマだ。天空を一心に見つめ、気合を発している。いつも誰にでも余裕で勝ってきたシマダルマのそんな姿を見るのは初めてだった。

僕が1本取れたのは、両手ぶらり戦法で油断を誘ったからだ。でも、もう通用しないだろう。本気のシマダルマにどう対応すればいいのか。
背筋に冷たい汗が一筋したたっていた。

それでも、僕は頭を回転させていた。
武蔵との修行で何をやってきたか、初めから思い出していた。

「死を覚悟せねば兵法者にはなれぬ」と武蔵は言った。「小僧、お前が敵を仕留めたいのなら、そこから始めなくてはならぬ」と。
それから僕は武蔵の真剣を受け続け、敵との間合いを知った。

髪の毛1本ほどの差であっても、敵の剣筋を見極めて交わし、打ち込むことができれば倒せる。逆に言えば、髪の毛1本の間合いを間違うと、倒される。

いやいや、どう考えてもシマダルマの方が実力は上なのだから、髪の毛1本の半分でも足りないかもしれない。そのくらいギリギリの勝負を挑まなければ、勝てないだろう。打たれて死ぬ覚悟がなければ、そんな勝負はできない。

武蔵の言う「覚悟」を僕はそんな風に理解していた。
「なんか難しいことを考えてるな」「要するにどういうことだよ」
タロージロー、人が真面目に考えてるんだから、茶化さないでくれよ。

ヨーコちゃんやアーシの声援を背に、僕はシマダルマと対峙した。面の奥に潜んでいる目は、赤く燃え盛っている。僕なんかに1本取られたのが余程悔しかったのだろう。その炎は太陽のフレアみたいに爆発して、僕のところまで飛んできそうだ。
気圧されてはいけない。そう思った瞬間、武蔵の顔をした師範代が試合再開を告げた。
「始め!」
同時に太い声が道場に響き渡った。
「ありゃ~」
それは他の誰でもない。僕の声だった。
剣道では「セイヤー」とか「サー」とか言葉にならない声を発する。相手を威圧したり自分を鼓舞したりするためで、師範代からは「気迫を出せ」と教えられていた。でも、僕はそれまで何となく恥ずかしくて、声を出したことはなかった。

だから、自分でも驚いた。だけど、不思議と興奮している感じじゃなくて、冷気を含んだ声だった。落ち着いていた、といえばいいだろうか。

シマダルマの発する気配が赤い炎だとすると、僕のは青かった。
人の気配を視覚化できるとしたら、その時の僕たちの剣には赤と青の気迫が絡みついて、うねっているように見えただろう。

僕は中段に構えた。もう、両手ぶらりはやめた。相手を誘って返り討ちにするにはいい戦法だけれど、シマダルマにはもう通じないと考えたからだ。
それに、自分でも不思議だったけれど、僕の中には「正々堂々と戦いたい」という思いが生まれていた。それは自信の裏返しなのだろうか…。

しかし、そんな考えを地響きが消し去った。
「ぐおおおおぅ」
シマダルマだった。その気勢が道場の空気を震わせ、地響きになったのだ。

ひとしきり吠えた後、シマダルマはゆっくりと上段に構えた。ついさっき僕に抜き胴を決められたのに、胴を空けている。あからさまに誘っている。
「さあ、胴を打ってこい。俺の面とどっちが速いか」
そう言っているのだ。

最後の時が近づいていることを誰もが知っているのだろう。
道場は静寂に包まれていた。

僕はじっくり観察した。どうすればいいのか。
「隙がないな」「ぜ~んぜん隙がないな、今は」
なんだよタロージロー、こんな時に。黙っててくれよ。

「いつも力を貸せって言うじゃないか」「勝ちたいんだろ」
ありがたいけどね、今さらいいんだよ。自分で何とかするから。
「ふ~ん」「ほほ~」
それきりタロージローの言葉は消えてしまった。
けれど彼らの言う通り、確かに、今のシマダルマには隙がなかった。

ん? 待てよ。「今は」ということは「今の状況では」ということだ。今は、シマダルマが誘っている状況で、「ほら、来てみろ」と余裕たっぷりに見える。
でも、実はそうでもないかもしれない。これまで一方的に攻撃してきたシマダルマが、胴を空けるという罠を仕掛けてきたわけだ。
ということは、力任せの攻撃ではうまくいかないと思っていることになる。裏を返せば、僕を警戒している…。いや、ひょっとすると僕を怖がっているんじゃないだろうか。
そう考えると、ずいぶんと気が楽になった。過酷な状況の中で、僕は少し成長したのかもしれない。

もう、迷うことはなかった。押されているのは、僕じゃなくてシマダルマなんだ。そして、シマダルマが作り出した「今」を変える方法はひとつしかない。そう。僕が動けばいいんだ。
「ありゃ~」
「りゃりゃ~」
僕は腹の底から気合を入れた。

その瞬間、上段に構えたシマダルマの竹刀がピクっと動いた。
来る! 脳天杭打ちが来る!
何も考えなかった。ただ自然に、僕の体は反応した。左手は小太刀を掲げて防御の姿勢をとり、右手は一点に向けて竹刀を発射した。それは本当に、振り下ろすというよりも弾丸を撃つ感覚だった。

丸太のように重い脳天杭打ちが襲ってくる。僕はその切っ先を紙一重で交わしながら右に回り込み、同時に竹刀を発射した。
「小手えぇぇぇ」
竹刀が狙ったのは、シマダルマの小手だった。

とらえた感触はあった。
でも、武蔵の顔をした師範代の「1本」の声はかからない。
代わりに「浅いっ」という低いうなり声が響いた。

さすがにシマダルマ。反射神経は並大抵じゃなかった。あとほんの少し踏み込んでいたら、決まっていたかもしれない。数ミリの差だったろう。

そのまま僕は、シマダルマの懐に飛び込んだ。小手を打った僕は体のバランスが崩れている。離れたままでは反撃を食らってしまう、というとっさの判断だった。

僕はシマダルマの丸太を2本の竹刀で十文字に受けた。つばぜり合いだ。シマダルマは全体重をかけ、覆いかぶさるように押してくる。
重い。じりじりと後退してしまう。すでに試合場の端っこだ。

このまま場外に押し出されたら反則負けになってしまう。剣道の試合は、四方を断崖に囲まれていると想定しているから、白線から外に出れば負けなのだ。


進退窮まれり、とはこのことだと思った。
僕は断崖絶壁の上に立っている。
シマダルマの重圧には勝てない。もう半歩でも下がれば終わりだ。
そんな危機的状況で、僕は福岡城址の石垣を思い出していた。その頃は仲間たちと一緒に「肝試し」と言っては、石垣を登っていた。足場はしっかりしているので、意外に登れるんだけど、降りるのは難しかった(良い子はマネしないでね)。

手を滑らせて落ちてしまうんじゃないかと思うと、怖さが先に立ってしまうからだ。
僕はそれと同じような心境になっていた。シマダルマを押し戻そうとしても、足がすくんで力が出ない。

と、その時だった。背後で声がした。
「あー、クーミン!」
アーシだった。
小さな声だったけれど、静まり返った道場にはよく響く。道場全体の緊張した空気が一瞬緩み、同時にシマダルマの体が軽くなった。

クーミン。本当にクーミンなんだろうか。僕の頭はアーシの声に反応して彼女を探そうとしていたけれど、体は違っていた。十文字に組んだ竹刀がシマダルマを押し込み、その巨体がひるんだ隙に、崖っぷちから回り込んだのだ。
体を入れ替え、断崖を背にしたシマダルマの懐に飛び込んだ僕は、再び十文字の竹刀で押し込んだ。シマダルマも負けじと押し返してくる。
今だ! 僕はその反動を利用して、一気に体を引きながら、離れ際に面を放った。
「ありゃ~」
右手の大刀はシマダルマの面をとらえようとしていた。決まる。これですべてが決着する。クーミンとの約束が果たせる。
そう思った。いや、確信した。

しかし…。
僕は脳天に強い衝撃を感じた。僕の右手がシマダルマの面に届いたのと、ほぼ同時だった。
どっちが先だ? 僕は武蔵の顔をした師範代に目をやった。
でも、記憶はそこで途切れた。

頭の中にはひらひらと天女みたいなのが飛び回っている。ここは天国なんだろうか。いや、違う。武蔵と修行した若宮神社の近くにある壁画だ。いつも見ていたので、記憶に刷り込まれていたんだろう。


「まー坊、まー坊、大丈夫?」
「あー、沢村、しっかりしやい」
目を開けると、ヨーコちゃんとアーシの顔がぼんやりと見えた。僕はどうやら道場の隅に寝かされているらしい。面は外されている。

試合はどうなったんだろうか。
「あー」
珍しく言い淀んだ後、アーシは言った。
「あー、相打ちやったったい。試合が続けられんけん、負けたったい」
剣道で試合続行が不可能な場合は負けになる。

そう。僕は負けた。負けたのだ。負けてしまったのだ。
「負」の文字が脳内スクリーンに続々と湧いてきた。裸になったら、きっと全身に「負」の文字が書かれているんじゃないか。お経が書かれた耳なし芳一みたいにさ。

その時の気持ちを尋ねられても答えるのは難しい。負けた高校球児が甲子園の土を袋に詰めた後、インタビューされて「悔いはありません」と硬い表情で答えるようなものかもしれない。
どう振り返っても、あれ以上の戦いはできなかったと思うけど、「強い人が好き」というクーミンの希望に沿えなかったわけだからね。

そういえば、クーミンはどうしたんだろう。
「あー、絶対、試合ば見よったっちゃけどね。窓の外におったと思ったっちゃけど。いや、あれはそうやったって。いや、たぶん…」
話せば話すほど、アーシの目撃談は怪しくなっていった。

ま、アーシを責めても仕方ない。その声のおかげで最後の勝負ができたわけだし。あのままだったら、場外反則負けになっていたんだから。

冷静になってそう考えていると、太い声がした。
「沢村、お前、強かったぜ」
シマダルマだった。
「また、試合しょうや。面白かったけん」
なんだかスッキリした顔だった。クーミンを賭けた勝負だったことなど、すっかり忘れている様子だ。

なあ、タロージロー。勝てなかったよ。クーミンにも会えなかったし。これからどうすればいいんだよ。
すると、頭の中に文字が現れた。
「沢村君はよく頑張ったよ」「強くなったよ。すっごく強くなった」
あれ? これってタロージローじゃないよね。
クーミン! クーミンだろ。ね?

「わたし、ずっと見てたよ」「前よりずっとずっと、大好きになったよ」
僕はもう泣きそうだった。汗か涙か分からない水滴が、目尻ににじみ出てきていた。
クーミン、僕は君に会いたい。会って、何も話さなくてもいい。ただ会いたい。それだけでいいんだ。

でも、返事はなかった。
「伝言は伝えた」「伝言はここまでだ」
なんだよ、タロージロー。伝言ってどういうこと? クーミンはどうして姿を見せないんだよ。
「まだ始まったばかり」「そう、旅はまだ始まったばかり」
それはどういうことなんだよ。まだ何かがあるっていうわけ?

しつこく食い下がろうとしていると、めまいがしてきた。いや、めまいじゃなくて周囲の空間が歪んできたのだ。僕は時間に飲み込まれていった。

黒猫屋珈琲店では、マスターがいつものようにコーヒー豆を挽いている。
「お久しぶりですね」とアルバイトのシャルルが微笑みかける。彼女が注いでくれた冷たい水を一気に飲み干し、僕はようやく現代に戻って来たことをはっきり認識した。

それにしても、僕はいったい何のために過去に戻らされたのだろう。考えてみると、僕は大人になってからずっと流されて生きてきた気がする。それがすべて間違っていたとは思わない。だけど、何か大切なことを忘れていたんじゃないか。

カウンターの奥では、タロージローがじっと僕を見ている。
君たちは僕に何を伝えようとしたんだい? これから何が起きるんだい?
彼らの目がキラリと光った気がしたが、その表情からはまだ何も読み取れなかった。


路地裏は異界につながっているという。
でも、その入り口がどこにあるのかは分からない。
いや、正確に言うと、分かる誰かにしか分からない。
そして、分かる誰かになれるかどうかは、誰にも分からない。

                                           シーズン1(完)

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